イエスが批判した人たち − ユダヤ教支配体制(2014 聖書の集い・イエスの生涯から ⑥)

ヨハネによる福音書 2章13-22節 ”神殿から商人を追い出す”
わたしの父の家を商売の家としてはならない。(ヨハネ 2:16)

2014.5.21、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第76回、「新約聖書 イエスの生涯から」⑥

(前明治学院教会牧師、健作さん 80歳)

 毎週金曜日に首相官邸前に多くの人々が集まって「脱原発」を求めデモを行っています。

 その声を「東京新聞」は毎週3〜4人ずつ伝えています。

「デモが100回を迎えたのを新聞で知って、自分にも出来る事は何かを考えてここに初めて来た。エネルギー基本計画を見ても、政府は福島のことを考えていないと、怒りすら感じている。」(八王子、大学生・佐藤晴男さん 東京新聞 2014年5月16日)

 イエスが現代の日本にやってきたら、きっと「官邸前」に行き、叫びをあげるに違いない。

 今日の聖書の箇所は「イエス、神殿から商人を追い出す」という見出しがついている有名な箇所である(並行箇所:マタイ21:12-13、マルコ11:15-17、ルカ19:45-46)。当時ローマの植民地であったエルサレムは、宗教自治は許され、神殿経済は律法の規定によって行われていた民衆の献げ物によって成り立っていた。

 神殿には特権をもった商人たちが、法外な両替賃(神殿ではローマ通貨をユダヤ通貨に変える必要があった)や燔祭のための動物を法外な値で売る悪徳商がいた。

「イエスは縄で鞭(むち)を作り、羊や牛を境内から追い出し(15節)」たという。これは、神殿体制を支える律法学者・祭司らへの批判・挑戦であった。この実力行為はイエスを「殺す」ための直接的契機となった。

 注意深く福音書を読むと、恐らく歴史的事実としては、この「宮潔め」はイエスのガリラヤでの活動の後、エルサレムに乗り込んでからの出来事であったであろう。しかし、ヨハネ福音書では福音書の初めの方に(21章ある物語の2章)に持ってきている。何故だろうか。

 それは、ヨハネ福音書が、イエスの生涯と振る舞いを歴史の中で伝えようとするマルコの語り方とは違って(マタイ・ルカは、マルコを含めて「共観福音書」といわれる様に、マルコの方法を、後退したとはいえマタイ・ルカは踏襲している)、ヨハネの信仰的考え方(神学)を優先させているからである。

 救い主イエスは、神から遣わされて、この世の闇(主としてユダヤ人)の中で光として闘い、世の罪を負って十字架につけられ殺され、十字架を通して栄光を現し、復活して天に帰ってゆくという、ヨハネの底を貫く神学である。

 マルコでは、イエスが対抗したユダヤ教は、律法学者・パリサイ人・祭司・サドカイ人・ヘロデ党の人々など細かに具体的に記されている。

「安息日の規定(労働を禁じる緊急な「麦穂摘み」や「医療行為」)」に対して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)というイエスの言葉が記されている。

 権力への批判・闘いは抽象的では駄目なので、具体的に一つ一つ手間がかかっても闘わざるを得ない事が、聖書が語るところではないであろうか。

 そしてイエスはそのように身を賭けて生きられた。ヨハネはその点かなり抽象的である。

 しかし、ヨハネは根本的な「世」への関わりを

「私は世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)

 と終末論的(最終的)希望を示しているところにヨハネの「キリスト論」の特徴がある。信仰とはこういうものであろうか。

 しかし、権力への闘いは具体的になされるべき事(例えば、原発訴訟も東電を相手に、国を相手に、企業を相手に、更にそれぞれの原発に対してなど)。そして権力を相手にする闘いは、人類の歴史と共に在り、一進一退だが希望を持つところに聖書の信仰がある。

聖書の集いインデックス

イエスの社会への目 − 経済的構造へのまなざし(2014 イエスの生涯 ⑦)