しかし主よ(1970)

1970年4月12日 岩国教会週報

(岩国教会牧師5年目、健作さん36歳)

 詩篇22篇を読む。世の暴虐の中にあって、ひとえに真理にたつゆえに、作者が深い悩みのうちにあることが、ひしひしと響いてくる。作者は苦悩の現実を避けはしない。また、絶望し自失し、いらだって叫んでもいない。苦しみを真実に受けとめつつ、そのあまりの厳しさをその都度、切りかえしている。現実を現状としてではなく、未知の可能性において、即ち「聖なるおかた」(3節)の許に認識する。作者は、現状を切りかえす信仰の「しかし」という言葉を三度用いている。3節の「しかし」は、作者が教えられた信仰の教義に従った切りかえしである。単なる教義ではない歴史の検証を経た真理である(4-5節)。真理の客観性に強く立つことこそ、困難な現状を切りかえす力である。「あなたは聖なるおかたです」という告白が現状の閉塞を突き抜けてゆく。さらに作者は、体験の中で「しかし」を語る(9節)。体験は真理の客観性を受肉される。そこには慰めがある。最後に作者は、祈りにおいて「しかし」を語る(19節)。現実の苦しみが、祈りという姿勢、対話関係においてしか切りかえせないところに、宗教的実存、信仰的実存がある。そこまで破れかぶれにならなくても、もっとスマートに生きられるのではないか、と思うこともあるが、実際、真剣に祈った後は、きわめて自由である。作者も22節以下、きわめて軽やかに言葉が流れている。

(1970年4月12日 岩国教会週報 岩井健作)



(サイト補足)本テキストで取り上げられる詩篇22篇は、2週前の復活祭(イースター)礼拝後、祈祷会・聖書研究会でのテキスト。


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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