「指」第105号所収(「指」編集委員会編、日本基督教団上原教会 1959)
(同志社卒業から2年、牧会2年・広島流川教会伝道師2年目、健作さん26歳)
地方にいると、キリスト教界という特別な状況で育っていない人達に接する機会が多々あります。そんな場合、如何に対話を持ちかけ、新しいものを生み出して行けばよいかということは絶えざる課題です。今、僕が感じている問題もそれと関連しています。それは一口でいうと「言い切り方」の問題です。と言えばおよそ何のことか察して載けるかと思います。僕たちがイエスに関して何かを語るとき、それが内容の自明なことであるとするなら、説得の効果さえ計算に入れておけば、そんなに難しいことではありません。しかしイエスその人は僕たちとの関係において見えかくれするものであり、その関係は共感で共有することしか出来ないものですから、彼について語るときには、彼との関係の共有を目ざして、僕という主体で何かを言い切らなければならないことになるのです。確に僕がイエスについて何かを言い切っている時、彼との関係が僕にとって初めてリアルになり、その関係の共有に開かれてゆくと言えるかも知れません。巨視的に考えれば、どんな言い切り方をしたって、イエスとの関係の共有をめざしておればよいわけです。言い切るという事は「果てしない投企」であって、千差万別であります。しかしその言い切り方にもやはり大きな側面といったものがあるようです。それを三つのモメントから捉えてみようと思います。
第一はイエスとの関係を客観的に叙述するという言い切り方です。ここでは「関係」を傍観者の視点から述べるのですから、聞き手の主体的真理としては未知な概念を一応自明なもののように使います。「イエスはキリストである」「イエスにあって、僕らは始めて他者に出会う」といった具合です。こういう言い切り方が叙述のままで、その真理の「客観性」を主張すれば、杉原さんがすでに指摘しておられる(「指」101号)ように誤りを犯します。「私はあなたを愛している」という言い切り方がそのままでは鼻持ちならぬのと同様です。しかしこの言い切り方は限界を露わにしており、危険を持ちながらもやはり必然性があるようです。それはイエスとの関係の共有を目ざす時、「共に」ということの枠として保留しておかなければならないものだからです。
第二は言い切るという名に相応しい言い切り方です。言い切るという場合の主体的な側面を徹底的に前面に押し出しています。言葉になった時はまだ命令法かそれに類した発想が取られます。イエスとの関係をリアルに体得せしめるモメントを担っています。「眠っているものよ、起きなさい。死のなかから立ち上がりなさい。そうすればキリストがあなたを照すであろう」(エペソ 5:14)などがそうです。もちろんここの後者は蛇足ですが。この言い切り方は第一の客観的な叙述の限界を排除してくれます。叙述された事実を「ホントウ」の事実、主体的な出来事にする言い切り方です。しかしこの言い切り方を厳密に生かすにも、やはり危険は覚悟してかからねばなりません。それは誰かと一緒に立つという位置ではなく、自分一人しか立てない位置に立たねばならないからです。その位置では第一の言い切り方で述べておいたことが一切自明なことでなくなります。孤独を味わい、傷つき、耐えるといったことが起こる地平です。確かに第一の言い切り方が保留してあることで、その危険は繋ぎとめられますが、その限界の彼方で第三の言い切り方が予想されます。
第三の言い切り方は穏やかです。イエスとの関係が説明を越えたものであることをそのまま言ってしまうからです。説明の限界をあらわにして相手に共感を期待するといった言い切り方です。「『彼を見ていると自分もまた人間なのだと感じることが、人間はレフト・トルストイであり得るのだと認識することがひどく愉快です』むろんイエスとトルストイは似てはいないのですが」といった類です。「しるし」として何かを述べるわけです。新約聖書でもヨハネによる福音書は象徴的な表現が多いと言われますが、このような発想と思われます。
第一の言い切り方がイエスとの関係の「認識」であり、第二がその関係を絶えず生起させ「体得」させるものであれば、第三はその体得の残像の中で「理会」としてゆくようなものです。このように種々層はありますが、とにかく僕らが何かを言い切ってゆく時、イエスとの関係の共有は誰を相手としているときでも成立しており、このような関係の共有が共感出来るとき「教会」がそこに在るのです。
前おきが長くなりましたが、このような言い切り方の問題に示唆を与えてくれたのは、エペソ人への手紙の教会論の展開の仕方です。この書簡の著者(モファット・ディベリウス、グッドスピード、ミットン、ナインハムらの意見に従ってパウロ偽書説を取るのが当を得ていると思っています)はイエスとの関係の共有を目ざして、「教会」が何であるかをテーマに論をすすめます。しかしそれが単に叙述の形式で伝えられるにとどまらず、この書簡を受け取る人達をしてイエスとの出会いが具現してゆく現実である教会を形成せしめるような性格をもっています。資料と方法については専門領域のディスカッションにまかせて省略し、論理の展開の仕方に焦点を合わせて結論だけを述べて見たいと思います。
最初、著者はエクレーシア(教会)が何であるかを客観的に叙述します。その中心的なことはエクレーシアとクリストス(キリスト。イエスと同義で用いられている)との関係を述べるところに表わされています。それによると、まず教会はキリストという主体の人格的他者という位置で画かれます。ただ悲しいかなその他者は徹頭徹尾主格に対する対格(目的格)でしかありません。両者はキリストを主語とし教会を目的語として、新約思想の決定的内容を表わす他動詞で関係づけられます。「キリストは教会をご自分に迎える(5:27)」「キリストは教会を愛し(5:25)」「キリストは教会をきよめ(5:26)」「キリストは教会にご自身をささげ(5:25)」「教会はキリストに仕え(仕えるという語は能動態では支配するの意で、キリストが教会を含めて万物を従わせるという概念(1:22)と表裏します)(5:24)」これらがそれを示しています。
次に彼は今とは全く異った関係を述べます。それは教会を目的語などという受身の位置におかずに、キリストと対等に主格にしてしまっています。ケファレー(かしら)、ソーマ(からだ)、プレーローマ(補うもの 1:23 – 口語訳の〈満ちみちているもの〉は適訳ではない – アボット、レントルフ、バウアーらによる)という概念を媒介にしてはいますが、キリストと教会とは共に主格として関係づけられます(1:23、5:23、1:22)。さらにいきなり等位接続詞で「キリストと教会」(3:21、5:32)と結びつけるあたりは全くエペソ人への手紙独特です。これは何を表わしているでしょうか。教会は確かにキリストに対して対格で示されるように、キリストをかしら(根拠、根源の意 – ビデイル)としています。しかし史的イエスの肉のからだなしではキリストという概念が単なる待望のメシアを表す思想の型に過ぎなかったのと同じように、教会なしではキリストは歴史と接点を持たない、一切のリアリティーを失った幻想となることを示しているようです。この意味で教会はキリストの欠くべからざるものとして彼に相対して主格の位置を持っているわけです。教会が主格にならない限りキリストが主格であることも事実とはならないというのがその主張です。
彼は以上のようにキリストと教会の関係を明らかにしましあt。しかし彼がその関係を直説法で客観的に言い切ってしまったとたん、この論理は聞いている人達の頭に観念として定着されてしまいます。印画紙に焼きつけられた写真の人物を眺めているようなものです。この限界を排除して、その内容をどのように活かすかが彼の次の課題です。
著者は直説法で言い切ったときの限界を命令法で切り崩します。これは余談ですが、エペソ人への手紙には57の文章があり、そのうち328回の動詞が用いられています。副文や分詞などを本文に従属させてしまうと、本文は直説法と命令法の文章にはっきり分離されてしまいます。主として1ー3章では教理が直説法で述べられ、4ー6章では倫理的戒めが語られます。後者に出て来る42の文章では直説法と命令法とが交錯しているのが目につきます。さて、彼は先のキリストと教会の関係を5章以下で夫と妻とに対する戒めを説いた命令法に結びつけます。もちろんこの結合は両者がその背景に持っている幾つかの思想の型の類似という点からも考えられますが、著者の明瞭な意図があると見るのが妥当です。クルマンは「原始キリスト教においては、教理ないし倫理は考えられない。すべての当為の実在の上に立っている。命令法は直説法のうちにその確固たる根拠をもっている」(『キリストと時』)と言って、一方的に命令法を直説法に隷属させてしまいます。一面の真理を言ってはいます。しかしエペソ人への手紙ではそうなっておりません。著者は命令法から直説法への方向も取っています。直説法がなければ命令法も出て来ないが、命令法によらないと直説法で言っている内容も浮かび出てこないという相互前提、相互排除の関係にあるわけです。
テキストにそって例をあげますと、5章25節以下に「キリストが教会を愛し…たように、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない」とあります。ここで言われている愛はもちろん関係概念ですから、ドッドが言うように全く別々の3つの関係が隣り合って類比されていることになります。(1)キリスト – 教会。(2)夫 – 妻。(3)私 – からだ(このからだは人間たることの意 – パウエル)。ここで語られる夫への命令法は徹底したものです。自分のからだという受けとめざるを得ない限界内で人間たることに立ち向かってゆく在り方を契機として、妻に対して「愛する」という一つの位置をとれというわけです。この命令法を拒否すれば彼は「自分のからだ」を失います。人間たることを止めなくてはなりません。彼はこの命令法を聞くことにおいて、類比された関係から見ると、キリストが教会に対して持っている位置に立つことになるのです。直説法で述べて保留しておいた事を思い出してみると、この位置は愛する主体としての位置、投企してゆくものの位置です。だが事実は彼が命令法を聞いている限り、彼は「自分のからだ」という枠内にとどまっています。しかし直説法で述べられた関係をふりかえる時、この枠内に留まること、客体として表されていた教会の位置に他ならないと気が付くわけです。この事は彼が命令法に相対している限り起こります。そこでは彼は自分自身主体でありつつ、キリストの客体であるという二つの位置を身に引き受けています。ここでキリストと教会との関係は客観的な叙述の枠を飛び出てしまいます。「教会がキリストに欠くべからざるものである」こともここで出来事となります。人間であり得るということは教会であり得るのだということを体得するわけです。このようにして著者は命令法で言い切ることにおいて直説法の内容をあらわにします。
最後に著者は「この奥義(結婚に於ける一体関係)は大きい。それは、キリストと教会をさしている(5:32)」と述べます。キリストと教会の関係は或る場合には「関係に於ける位置の類比」という迂回を通らずにしるしになることもあります。バルトはこのテキストについて「関係の投影」だけを指摘していますから、多分この一面だけのことを言っているのでしょう。しかし『しるし』になるのは夫と妻の関係だけではなく、「自分のからだ」であろうとする人間自身がすでに「しるし」であります。このことはテキストからも頷けます。「夫も自分の妻を自分のからだ(ソーマ)のように愛さねばならない。自分自身(サルクス)を憎んだ者は…いない。それ故ふたりの者は一体(サルクス)となるべきである。この奥義は大きい(28-33)」と来ています。「しるし」となっている奥義はサルクスで示されていますが、この旧約の引用句に合わせために「自分のからだ」であるソーマを次でサルクスに書き換えていることは、ソーマを「しるし」として予想しているのです。このからだである人間を「しるし」として言い切ってゆくことは何を意味しているでしょうか。それは直説法と命令法とを内に秘めながら、説明を超えた共感を求めてゆくことに他なりません。著者はこのような形で教会を実感させているわけです。
エペソ人への手紙の著者は教会論を展開するにあたって、様々な言い切り方をしながら教会を形成せしめようとしました。イエスとの関係の共有を目ざしている僕もいろいろな言い切り方をしながら、自分の限界を十分生きることで見え隠れする教会を感じてゆきたいと思っています。
(岩井健作)




