牧会と国家(2001 宣教学8)

2001.3.9、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(8)

(神戸教会牧師24年目、牧会44年目、健作さん67歳)

1.教会の「共同性」が国家の「共同性」を補完するものになるのか、それを相対化して、「共に生きる」という、多面的人間存在の多様な「個」を包含(inclusive)する方向性を持つのか、それは基本的に「個」と「個」のかかわりの質に関係している。牧会とはこの質に関係する営みであることは前回に述べた。教会がその務めとして果たす牧会は、国家の制度的枠から自由でなければならないし、その自由のための働きを創造的に生み出していくのが教会の牧会であろう。

 例えば、私は、1960代の終りから1970代のはじめにかけて、ベトナム戦争に対する反戦活動の最中、米軍海兵隊岩国基地の街にある教会で、カナダ派遣の在日宣教師とともに、米兵の「良心的兵役拒否」支援活動、および反戦反基地活動支援を行った。

 この時、日米の教会は、国家の意思に抵抗しつつ、制度としての教会が国家に対して持っている境界線ぎりぎりの線で、我々の牧会活動を支えてくれた。第二次大戦下のドイツの教会が「バルメン宣言」をめぐって教会が果たした「牧会」の方向性と質を思い起した。ここには、現在直面している日本基督教団が制度として抱え持っている「教師問題」の「教師とは何か」に関連して、問われている問題の質的課題と重なる方向性がある。また「信仰告白」に関わる問題でもある。状況に対する「個」の主体的、ないしは個と個との「連帯」にかかわる関係の質を問い続けることを疎外するような意味での「『信仰告白』文」の形式的承認を「教師検定の基準」に据えようとする営みは、もっともらしくありながら、教会の「共同性」を国家の「共同性」の補完に作用せしめる危険を伴わざるを得ない。このことは、「教団」が個別課題として取り組んでいる様々な「差別撤廃」の運動の質的在り方についても絶えず問い続けねばならない問題でもある。「共に生きる」ことは、深く個々人の魂への配慮にかかわる「牧会」に関係している。

 今日は、「牧会と国家」というテーマを大きく見据え、その射程を意識しながら、もう一方で、聖書の枠組みを踏まえつつ、また他方、教会の日常的営みである「説教」やその広がり(extension)、特に「牧会」における、人間関係の質をも意識しながら、ヤコブの手紙を手がかりにして論考を進めたい。

2.神戸教会の説教で、間隔を開けてではあったが「ヤコブの手紙」を続けて1999年春から2000年夏までの間に11回取り上げた。

参考(「ヤコブの手紙のこと」神戸教會々報 No.158 所収、2000.8.13)

 神戸教会には、ヤコブの手紙に出てくるような「信仰義認論」をふりまいて、それによって教会内で自己実現を主張するような者がいる訳ではない。またこの手紙が、批判の相手にしている様な大商人やそれに追従する新興商人たちがいるわけではもない。しかし、学んで見て分かった事は、日本の教会の多くがそうであるように、パウロおよび原始キリスト教に始まる「贖罪論」を中心とした、キリスト教の正統的理解に対して、既に一世紀末のキリスト教においてすら、信仰の理解については多様な視点がある事である。その点で、16世紀マルティン・ルタ-が「藁の手紙」と言って、価値低くせしめたこの手紙は、むしろ、キリスト教の多彩さを知る上で貴重な手紙であるといえよう。

3.筆者の教会で、ヤコブの手紙を説教で扱った経験から、ヤコブの特徴を述べてみたい。ヤコブは、パウロの名をつけた文書が信仰義認論による正統派意識を固定化させていった一世紀終わりのキリスト教に対して、一石を投じている。信仰義認論とは何か、その「教義」としての功罪を、状況とのかかわりで認識しておく必要があるだろう。どんな思想も「主体」との「対話」あるいは「他者性」を離れて、主体を観念性へと引き込む作用を持つ危険性はある。その意味では、テキストは常に歴史のコンテキスト(書き手と読み手の双方の文脈)に引き戻しつつ読まれるべきである。

「その後の時代」に対して「教会」がテキストをどの様に作用させてきたか、またしてしまったのか、また今それが「教会」でどの様に作用しているのかを、それなりの必然を含めて吟味しなければならない。またそれは同時に、教会だけではなく、人間が生きている現実の社会や思想の在り方との関連で吟味されるべきであり、そのことを怠ってはならないであろう。今、「信仰義認」論を含めて、キリスト教教義を「信条」にまで固定して規範的意味を持たせて、ある意味では「正統主義」が「教条主義」にまで陥っている部分がある。これに対して批判的距離を持つためにも、ヤコブの手紙は新約聖書の一文書として学ばれるべき文書である。聖書を読むことは、テキストを様式史批評・編集史批評・文学社会学批評、あるいは「フェミニスト視点による批判的修辞学的方法(絹川久子)」などが考慮されなければならないが、現実の教会では「教会形成」という信仰共同体の形成が優先される読み方がなされることが多い。その意味で、ヤコブの手紙は、パウロ文書と対等に読まれる事が少ない。それだけに、現実批判をここから読み取る上でもこの手紙を読む事の意義はある。

4.ヤコブの手紙は一貫した思想や主張が貫いているわけではない。

 牧会との関わりで読むならば、

① 貧しい人を差別する力にたいして、批判が語られている。
「草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消え失せるのです」。
「あなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげている」。
ここから察するに、ヤコブは「富んでいる人」に、当時の大土地所有者を想定している。都市に住んでいて、葡萄栽培の経営を大規模に行っていた人達である。葡萄はオリ-ブとともに収益性の高い産業だったいう(『新約聖書における農業のイメ-ジとその機能』高橋敬基)(ヤコブ1:9-12、5:1-6)

②「忍耐」を徳目ではなく途上の生への促しとして語っている。国家という巨大な力に向き合う力であるかぎりにおいて評価している。人格的関係がもたらす宗教性に属している。ここは疑似宗教的信念と区別されるところである(ヤコブ1:2-8)。

③ 富の力に引き摺り込まれない生き方を推奨している。教会の中で力を持っていたのは、大土地所有者ではなく、むしろ、それに引き摺り込まれていく進取の気風を持つ新興商人階層であるように思える。「心が定まらない、二心の者」が批判されている(ヤコブ4:13-17)。

④ 義認論[救済論]からではなく、創造論を復権させている(1:13-19)。
「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父からくるのです」。義認論が退けられているのではない。これをもって自己弁護する族の欺瞞を砕くために、義認論を「打ち出の小槌」にしてしまわない思考の多元性が求められている。

⑤「信心」と「世話」の一致を説く。22節の「御言葉を行う人になりなさい」は、ヤコブのもっとも言いたいところである。何時の時代にも口だけの人はいるものである(ヤコブ1:19-27)。

⑥ 社会構造としての「殺し」の否定を強調する。大土地所有者の「殺し」がどのようにして行われるかは、現代的問題でもある(2:8-13)。

⑦「信仰義認論」の担い手の問題(2:14-26)。真理は人によって担われる。

⑧ 教師の問題。指導者と全体(3:1-12)。「信仰義認論」は人と人の平等を生み出すはずなのに、なぜ、パウロ系の教会で、貧しい者を差別する現実が生まれるのか。教師は人一倍厳しい立場に置かれていることが語られる。「言葉を使うものは死ね」といった、水俣の漁民のことが思い出される。言葉の宗教であるプロテスタントは、言葉を武器とするだけに、その指導者の言葉の在り方は一層問われるであろう。自戒を込めて、思う。

⑨「国家」の側か、虐げられる「人間」の側か、その二重性の中での決断のありよう。「神に近づけ」はその分水嶺を示す(4章)。

⑩ 富の批判ではなく富者の批判(4:13-17)。

⑪ 礼拝と終末論的信仰(5:13-20)

5.ヤコブには共同体を締めくくっていく論理はない。どの論理であれ自分本位や自己拡張や自己主張に利用しようと思えばどんな論理でも使うことが出来る。問題は人間の現実のどこに立つかであろう。ヤコブの手紙には国家論がでて来る訳ではない。初期教会において、現実容認から出発するのではなくて、予言者の精神にたって、現実を批判的に捉え、自分の立場で、その批判を実践していく事、それゆえに「忍耐と祈り」が、奬められている。

6.国家をどこから見るか。

 ウクライナ・グレコ・カトリック、ウラジミ-ル・ケピッチ神父の話
「ある日、私は古い家で銃を見つけた。銃はどのように使えばいいのか、尋ねる私に、祖父は[さわりたくない]と答えた。祖父は[悲しみや自殺と銃は結び付いている。七つの戦争を見てきたが、私がいきている。私が銃を手にしなかったからだ]といった。」
(野田正彰『国家に病む人びと- 精神病理学者が見た北朝鮮、バルト、ガリシアほか』中央公論社 2000、p.154)

 今、「国家」はアメリカ一極の経済・軍事体制が強化されて、銃を取る方向へと道を選んでいる。その局面で「剣を取るものは、剣にて滅ぶ」というイエスの言葉にどれ程生きられるか、その方向で個人との関わりを作るのが牧会の方向であろう。

「岩井健作」の宣教学インデックス(2000-2007 宣教学)