2008.1.13、明治学院教会(100)
(阪神淡路大震災から13年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)
ローマの信徒への手紙 12:13-21
1.初期キリスト教、特にローマの教会の信徒に向けて、パウロが「キリストの福音によって生きる新しい生活」について指針を示しているのが、この12章。
9節から13節は、教会の内部の信徒同士への勧め。
14節以下は、教会の外部の人々への関わりの勧め。
ローマ社会は、皇帝が支配し、皇帝礼拝が行われている価値観の一元的社会。いわば縦社会。しかし、人間の社会は、その縦社会ですら「助け合う横社会」を細部で組み込んでこそ成り立つ。
2.横社会の部分は「福音による生活」と重なる部分である。
しかし、ぶつかる部分がある。極端に言えば、迫害者とぶつかる。
イエスの山上の説教には「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:44)とある。
パウロもこれを踏襲する。
「呪ってはならない」「祝福を祈れ」という。徹底して、人間関係を神の秩序から見る。
”自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。”(ローマ 12:19、新共同訳)
それはイエスの振る舞い、十字架刑の最後を見つめている時にだけ成り立つ生き方。いわゆる、あるべき姿の理想としての倫理・戒律・律法ではない。
”悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。”(ローマ 12:21、新共同訳)
「善」とは何か。
イエスその人のことではないか。
3.外に向かう愛は、世の人々との共存を前提とする。
彼らと共に喜び、彼らと泣くことができる時に、共存への祝福がある。
喜びと悲しみは、人間の心の、最も直接的な共有である。
喜びや悲しみを共にするのは、イエスの振る舞いそのものである。
愛する弟子ラザロの死に直面して涙を流した(ヨハネ 11:35)。
また、カナの婚礼の席では、味の良いブドウ酒をもって、一座を祝福された。
今日のような競争社会では、他人の喜びを自分のこととするのは難しい。他人の成功は羨望嫉妬の的になるし、お互いの足の引っ張り合いになる。
15節「高ぶらず」とある。19節には「復讐、報復は神に委ねよ」とある。これは自分をどれだけ「相対化」できるかに掛かっている。相対化の糸口は、喜び・悲しみの共有である。
4.街の喜び悲しみの窓口としての教会の牧師館での48年の思い出。
色々な人が来る。門口の人の姿の中にイエスがおられるかもしれない、という訓練をされた。門前払いもしたし、騙されもしたし、知恵も学んだ。たくさんの嬉しい話もあれば、悲しいことも経験した。
5.見知らぬ車椅子の青年に出会ったこと。街の力。捨てたものではない。
6.精神科医・野田正彰さんは『国家に病む人々』(中央公論 2000年12月)で、”「北朝鮮棄民」極秘面接記”を書いている。を書いている(「週刊ポスト」連載)。それは単なるルポルタージュ文ではなくて、悲しむ力を宿した文章である。
7.「喜び、悲しみの共有としてのトランペット」(新聞の投書のお話)。
自由な感性の与えられることを求めてゆきたい。
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