2008.1.9 「福音書の中のイエスの譬え話」第8回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」
(明治学院教会牧師 74歳)
ルカ福音書 18章2節−8節「やもめと裁判官」のたとえ 新共同訳
(1) イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
(2)「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。(3)ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。(4)裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。(5)しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
(6)それから、主は言われた。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。(7)まして神は、昼も夜も叫びを求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。(8a)言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。(8b)しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」
1.譬えの筋。ある町に神も人も恐れない裁判官がいた。
一人の寡婦(若い人だろう。遺産の一部の差し止め解除の求めであったかもしれない。裁判官に賄賂を使う資力はなかった)が絶えずやってきて裁判を求めた。
裁判官は取り合おうとはしなかったが、寡婦がひっきりなしに来るので、うるさくてかなわないから裁判をしたというお話。
そこからもう一つ展開して「主」は、不正な(買収の利く)裁判官のあり様、言い草にさえ透徹した眼を向けよという。神は叫び求める選民のため、速やかに裁いてくださる。今、その信仰があるか。
2.1節はルカの導入部。「絶えず祈るべきこと」に譬えを解釈する。2節-5節。不正な裁判官をも打ち負かす寡婦の不撓不屈さが中心になる。祈りも不撓不屈になされるべきだ。だから、6節−8節aは二次的付加、さらに8節b(終末時に備えるべき信仰)は後の付加となる(荒井献はこの理解。当然、題は「懇願する寡婦」となる)。
3.5節までに中心を置かないで、6節から8節aの物語に重きを置くと、中心は「不正な裁判官」となる。聴衆は裁判官の姿から神を推測するように仕向けられている。「不正」が問題ではない。寡婦の願いを拒んだこの無情な男も、ためらいの後、苦情をいう女に絶えず悩まされたので、遂にこの女の窮状を助けることにした。まして神においておや。神は忍耐をもって求める貧しい人の願いを聴き入れられる。選ばれた人に対してはその危急を救われる。その神の時の到来への確信を揺るがすものはない。
イエスの弟子たちは艱難に直面していた。終末時、サタン(悪しきもの)が出現し侮辱、告発、尋問、殉教、最後の信仰の試練がある。しかし、神はあなた方を選ばれた。神はあなた方の叫びを聴かれる。神の力、助けには疑いがない。「人の子」(人間として出現する天的存在)の出現という危急に際して、神の救いに対する信仰が地上に見られるのか。譬えはこの緊迫感に耐える信仰を語る(イエスの譬えの研究者エレミアスはこの考え)。
4.この譬えの理解は、前半に重きを置くか、後半に重きを置くかで、表題まで変わってしまう。しかし、もっと現代に引き寄せて読めないか。
5.一つの問い。不正な(賄賂を取り、金で裁判をする)現実に生きねばならない。イエスはそこを生き抜く可能性、力を語られたのではないか。
(予告文)この譬えの主役は、不正な裁判官だろうか、それとも不撓不屈なやもめだろうか。素朴に読んであなたはどう受け取りますか。正しい受け取り方などというものはありません。そこが「譬え」のいいところです。集まった人が、意見を交わしてみませんか。
前後の集会
*1月12日(土)午後1時−3時。於、横須賀・船越教会。
「原子力空母母港となる横須賀基地についての学習会」
主催・神奈川教区基地問題小委員会
*1月13日(日)午後3時。紅葉坂教会。「日本基督教団と沖縄」学習会
講師・岩井健作氏。主催・神奈川教区沖縄交流委員会
*1月16日(水)午前10時、家庭集会。お話:岩井牧師