「聖徒の日」によせて(1998 永眠者記念式)

1998.11.1、神戸教会週報掲載、
神戸教会、降誕前 ⑧、聖徒の日
(礼拝説教「主にありて生く」原稿は1ページ目のみ掲載)
▶️ 同日「生命の交わり」納骨者記念式

(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)

(サイト記:本テキストは全体の7割が引用です。永眠者記念式メッセージの補助という位置付けです。礼拝説教「主にありて生く」は黙示録がテキストで、原稿の1ページのみ掲載します)

▶️ 同日、永眠者記念式 祈祷



生命(いのち)の希望」というテーマで、去る9月、同志社神学協議会が行われ、大林浩氏(神学部客員教授)が講演されました。

 印象に残っているのは、キリスト教の人間観を「死後生」を視野に入れているところでした。

”人間の本質は霊魂というようなモノではないし、個別存在でもない。人間の人格とは、関係によって構成される豊かな内容を持つ。人の一生の間に出会う多くの人々との関わりの集積総体が人格というものである。従って、人格をあたかも一つのモノであるかのように考えて、一人の孤立した存在としてのキリスト者というものを考えるのは誤りである。キリスト者とは教会という生命体の中で、交わりを基盤として成立するものであり、イエスの「生と死」にあずかる世々の人々との交わりを一つにする者である。”

 さらに次のように言います。

”生者が死者を弔い、末永く死者を記念し労(ねぎら)うということは、広く人間社会に見られることであるが、死者が生者を支えるということは、あまり認識されていない。「生と死」「生者と死者」との有機的関係、相互媒介の関係を考えると、死者の果たす積極的役割が認識されねばならない。キリスト教の「聖徒の交わり」という考え方は、それを正しく認識させるものである。……現世の人間関係では、それが親密であればあるほど、その関係の外側に親密でない人が置き去りにされるという限界がある。……生者と死者との交わりは、そこに死者を介することによって浄化される。教会という人間の集いは「聖徒の交わり」として、究極的な人間関係に支えられて、現世の人間関係をより高いものにしようと努力する集まりである。……このことはすでに天に召されたキリスト者先輩たちに大きく負うところがある。深い敬意を表さなければならない」
(講演記録より)


 死は終わりではなくて、新しい人格関係の始まりであるという考え方は、人格を人と人との関わりの集積の全体として考えるところから出て来ます。

 私たちが、不安を感じ、恐れを抱く時というものは、関係が薄れ、弱くなっていく時です。

 逆に、関係(表面的なことを言っているのではなく、死者が生者を支えるというような、地上の時間を超えた関係)が厚くなる時、孤立感が緩められ、温かい思いに包まれます。

 黙示録21章がいう「新しい天と地」とは、そのような関係に入れられることではないでしょうか。

”わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。”(ヨハネの黙示録 21:1、新共同訳)

 聖徒の日、永眠者記念礼拝の深い意味を大事にしたいと存じます。

19981101

原稿8枚。1ページ目。

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