ヤコブの手紙のこと

神戸教會々報 No.158 所収、2000.8.13

(健作さん67歳)

主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方 ヤコブ5:11


 ヤコブの手紙を講壇で取り上げたのは、昨年の四月でした。

 教会暦や行事のテキストなどが入り、途中大きく抜けたりして、今年の七月に終わりました。その時々の週報に、釈義や要約などを書いてきました。どこにも記せなかった、5章1節から6節までのことをここに述べます。

 この手紙の貴重なところは、「新約聖書中のパウロの名をつけた文書が、正統派教会の正統意識を固定化する水準であるのに対し、……1世紀末ごろのキリスト教の多彩さを知る上で重要な文献」(田川建三)だということです。

 筆者の筆は、勧告的であると同時に当時の教会の主流の姿勢に批判的です。

「興隆する中産階級の教会員たちが、世俗の営利活動にうつつを抜かして富者達に迎合する一方、その価値観念を教会内に持ち込み、教会の貧者を甚だしく軽蔑していることに我慢がならなかった」(佐藤研)のが著者。

「神への完全なる服従を可能にする鍵は『律法』(筆者注「行い」)にある。……著者がパウロの信仰義認論に抵抗したのも、まさにこの点をめぐってのことである」(辻学)

 聖書学徒の研究の成果は、ヤコブの手紙が「行い」を強調して、キリスト教(パウロ)の正統的信仰を損なう危険のゆえに「藁の手紙」だと蔑称した、16世紀宗教改革者マルティン・ルターの言葉を全く相対化してしまっています。

 さて、5章1節から6節ですが、ここには、痛烈な富者批判があります。実際のことというより、著者の「預言者の精神」の継承を感じます。確かに、彼が手紙を書いた教会には、富める人達がいました。当時の教会の状況の酷さを感じます。しかし、著者は、これらを現実的に牧会的に戒めるというより、旧約の預言者の思想や言葉をストレートに語ります。

「泣き叫べ、ああ、その日は災いだ」

 初めから、富める人たちが攻撃されています。

「富んでいる人たちよ、よく聞きなさい。自分に降りかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの……金銀もさびてしまいます」

「ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」

 きつい言葉です。むしろ貧しい者の側から、あの出エジプト記2章23節の

「長い年月……イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」

 という言葉を逆説的に思い起こさせます。

「正しい人を罪に定めて殺した。その人は、あなたがたに抵抗しませんでした」(6節)

 マタイ5章12節の言葉を連想させます。

「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」

 6節の最後は、直接そのことを言っているわけではありませんが、イエスの最後を暗示させます。

 ヤコブは、富める者をも含めて教会を考え、富める者なりの現実的役割を考える、という立場ではないのです。

 新約聖書では、ルカ福音書、パウロ書簡は、富める者に居場所を作っています。しかし、ヤコブはそのような居場所を作ってはいません。預言者の精神から世の中を見るという姿勢がここでは示されています。

 このように見てくると、著者は当時の社会で、富める者がそれなりに居場所を持ちつつ、現実を許容しながら、どのように生きるかという現実路線を示してはいません。神の審きという終末論的な視点に立って、神の「現実」に立って生きる生き方を貫いています。

 ヤコブ書は5章7節以下では「忍耐と祈り」を語っています。忍耐と祈りのある生活は、口だけ、言うだけ、述べるだけ、の安易な現実主義ではありません。

 ヤコブの場合は、状況を厳しく認識すればこそ、根本的にその状況に対峙しようとする姿勢です。初期キリスト教の指導者の多くは、現実路線をとっています。それが悪いというのではありません。この世の中に存在することは多かれ少なかれ、現実的・実際的である事は当然です。しかし、ヤコブは手頃な安易な妥協を排して、現実との軋(きし)みに苦しむのです。この世の富から脱するのではなく、また妥協するのでもなく、根本から批判をします。この世とのぶつかりと軋みを恐れてはいないのです。

 ヤコブはそこに佇む教会の姿を

「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、讃美の歌を歌いなさい」(5章13節)

 と語ります。

 初期教会で預言者の精神が失われ、神と人間の間で苦しむ者が少なくなった状況で、ヤコブは預言者の姿を示していることを、この箇所から深く学びたいと存じます。