聖書にきく(1)(1980 保育)

神戸教会付属 石井幼稚園

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年4月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 46歳)

わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。 エゼキエル書34章11節、口語訳

 K先生がその年受け持ったクラスには、H君という一風変わった子がいました。みんなからはみ出した行動はとりますし、すねたところもあって保育者の言うことは聞いてくれないし、受容の難しい子でした。それでも40年近い幼児保育者としての経験を持つK先生は、なんとか受容を旨としてその子との心の格闘を続けました。しかし傍若無人ぶりにも目に余るものが出てきたので、どこかで少しけじめをつけたいと思っていた矢先、あるきっかけでチャンスが到来し、相当思い切って叱ってしまいました。日頃の感情も混じったせいか、当のH君はさすがにしょげて部屋の隅に塞ぎ込んでしまったようです。少しやりすぎたかなとの思いもよぎり、明日から園に来るのが嫌にならないだろうか、と心配も出てきました。H君は知的発達でも幼いところがある子でしたが、それがしばらくすると友だちにしきりに字を聞いているのです。やがて黒板に何やら長いことかかって書き終わると、ケロッとして外に遊びに行ってしまいました。やれやれと思ってK先生が見ると、そこには「Kのばか、もうようちえんに……」とたどたどしく書かれた後に続けて「くるな」とあったのです。

 さすがにK先生はびっくりしました。これは保育者とまるで逆の発想です。しかしそれがH君の実感だと悟った時、園が好きで好きでたまらないH君の屈託のない振る舞いと澄んだ瞳を思い浮かべて、しみじみと、幼子を園に招き給うのは神ご自身なのだと、H君を叱った後の重い気持ちから解放されたということです。そこには、神が招き、育て養い給う幼な子と共に保育者は在る。決してその逆ではないという自覚があります。

 1977年に日本基督教団全国教会幼稚園連絡会により「キリスト教幼児教育および施設についての基本的見解」が発表されました。この中で、キリスト教の幼児施設はいろいろな動機で建てられたであろうが

「神はこれらの施設を用い、人間的な創設の意図を超えた働きによって導き、助け育ててこられた。それゆえに、キリスト教幼児施設の真の創始者は、それぞれの設立の動機にも関わらず一つであり、それらの相違を超えて、幼児を招くのは神である。したがってこの施設で働くわれわれは、幼児を育て養われる神のみわざに参与するものであり、その任のために召されたのである」(「新キリスト教幼児教育の原理」 p.17)

 と述べられています。この考え方は大事な視点を提供しています。保育の実際の場では、知らないうちに幼子と保育者の関係が逆転してしまっていることがあります。手を抜くことなく一生懸命保育をやっているつもりで、保育者やその幼児観、教育理念がまずあって、そこから幼児を見ていくことしか、しなくなっていることもあります。こちら側の尺度に合わせてしか関係が持てません。それが当たり前になってしまっている時、もう一度、幼子を幼子ゆえに受け入れて(マルコ 10:14)、育て養われる神のなさり方に目を開かれることが「神に生かされている私たち」ということではないでしょうか。時々は幼児の存在を通して姿勢を正されたり、理解を深められたりすることもあるものです。

 エゼキエルは紀元前6世紀にイスラエル民族が国家滅亡とバビロニア捕囚を経験した激動のさ中、活動した預言者です。当時、国の指導者たちは利己的自分本位な考えで動いて、そのために民衆は生命を失い傷つきました。元々、祭司として民衆の生活に密着していたエゼキエルは、民衆と共に傷つき、また彼らを励ましました。そして同時に民衆を養わない国の指導者の責任を鋭く問います。その責任をあやふやにしておいてイスラエルの回復はあり得ないと預言します。羊(民衆)を養わない牧者が審かれていくことを預言し、他方その指導者階層の一人の祭司としての責めを負いつつ語った言葉が、神みずからが羊を尋ね養うのだ、という句です。一方には「弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず」(34章4節)という現実があります。これは今日の幼児保育の現状の大状況と重なり合っています。「支配」「差別」「競争」という原理で教育は汚染されていますし、幼児の生活環境は悪化へと傾斜していますし、能力中心主義の価値観が社会全体を荒廃させています。そのような極みを一方に見据えながら、他方の極みで主なる神が「わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」という現実があることに、恐れおののきを持って身を正すことが保育者の信仰というものです。

「聖書にきく」というページのねらいについて編集者から「保育者として技術や方法の訓練も大切ですが、保育者一人一人の信仰が問われます。み言葉に聴きつつ前進したいものです」という手紙を頂きました。自分の思う通りにはゆかない子に出会ったり、こちらの考え方の枠組みをはみ出してしまう子に出会ったとき、そこにたたずみ、わからないままにも、その子に寄り添って歩み、幾分かでも悲しみや喜びを共にし、もしできることなら、神もその子を尋ねておられるし、さらに養っておられるということを少しでも見せて頂きたいという切なる願いを持つのが保育者の信仰というものでありましょう。

 エゼキエルという名の意味は「神強め給う」です。エゼキエルは、神みずからが羊を養う牧者であることを信じ、その牧者にみずからを委ねたからこそ、自分でなんとかしなければならないという重圧から解放されて、神が牧者として羊(民衆)に持たれる関わりの多様さに目を開かれています。エゼキエル書34章16節には

「わたしは、失せたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う」とあります。

 ここでは、公平をもって彼らを養うということの内容が、それぞれに適切で個別的で、それゆえに多様な養いであることが示されています。このことは言い換えれば、幼児を画一化して見てゆこうとするこの世の価値観に左右されずに、そういう価値観の陰に隠れてしまっているものをそれぞれの幼児に即して受け入れていくことであります。

 杉原助牧師が「キリスト教保育とは、何か特別な保育のやり方のことではなく、何よりも『受容』に主眼を置き、受容をどうにかして実現し、受容に基づいて他の全てのわざを営んでいく保育のあり方だ」(『自由の証人』新教出版社 1980、p.212)と述べている通りであります。

 そしてそれを現実ならしめる背後の力が、神先立ち給うことへの信頼でありましょう。

▶️ 聖書にきく(2)(1980 保育)

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