聖書にきく(2)(1980 保育)

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神戸教会付属 いずみ幼稚園

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年5月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 46歳)

わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた。サムエル記上 2章26節

あなたを守る者はまどろむことがない。詩篇121篇3b

守られている ー お母さん・うち」という月主題は、五月の新緑のようにみずみずしさと力強さに満ちています。そして今月の聖書テキストもそれを祝福するのにふさわしい響きを持っています。しかし、ふと心に疑問が浮かびます。幼子がうちで母に守られて育っているという美しい情景があって、それを神が祝福するというのだろうかと。いや決してそうではないのだ、という思いが私の心をよぎります。もし幼子が母の守りのもとにあることが確かなことだとするなら、私が最近出会った出来事はあまりにも痛ましいし、またこれに類することがたくさんあります。

 Tちゃんは今年3年保育に入る予定でした。ここの園は都心の繁華街や料亭街に近く、お店の子が多いのです。Tちゃんの家も大きな料亭でした。大人の中の子どもですからちょっとおませな子でした。ところがもうすぐ入園という喜びの近いある日、お母さんがちょっと目を離したわずかの間に、お店の玄関の庭にある池の淵から鯉に何かをやろうとして落ちてしまいました。そのすぐ後、お客さんが池の橋を渡っているのに気がつきませんでした。少し経って気づいてすくい上げ、両親が近くの病院に運びました。最近の医学の力で一週間心臓だけは動いていましたが、ついに亡くなりました。お母さんから「私の不注意が……」と、悔いと懺悔を尽きない涙と共にたくさん聞きました。どう慰めてよいか言葉が出てきませんでした。仏教の方でしたから四十九日が済むと両親が挨拶に来られました。霧が晴れないように沈んだ言葉のやり取りの後、父親は今度はこれを頼みます、と母親の抱いていた下の子を愛おしむように目を注ぎました。すでに「召された」子については、もう私たちは神のみ旨の計り知れざることに服すことだけが残されているように思います。

 植村正久は愛子薫子を六歳で失いましたが、その時の感情を詩に託しています。

失せし子は
うからがための天使なり
幽明、みちは
はるけしと
おもうこころの
おろかさよ
むすべる愛の
ちぎりには
天地幽明
ひとつなり

 心にしみる言葉です。しかし、この出来事を通じ、うちや母の守りが幼子にとって究極的に確かでないことを、今さらの如く知らされました。下の子も兄の死の意味を負い続けて大きくなるでしょう。母の守りがあって神が祝福するのではなくて、神の守りがあって人々が祝福するのです。すぐにはわからないとしても、死を通しても語り続けるであろう上の子の存在と共に神の長く大きな守りがあり、その中で人々の愛が下の子に注がれていくのだと、門へと園庭を遠のいていく若い夫婦の後ろ姿を見送りました。

 さて、サムエル記上の2章26節の言葉は、ともすると、その言葉だけがぽつんと文脈から切り離されて読まれることがしばしばあります。けれども、もし2章12〜36節までの文脈の中でこの言葉を読むならば、様相は変わってくるはずです。ただ幼子の成長がそこにあるから現状肯定的に神と人との愛が注がれているという意味には受け取れなくなります。

 そこには、祭司エリの子らの振る舞いに象徴される人の世の親から子へと受け継がれていくどうにもならない罪の姿が深刻に記されています。エリの子らは親の祭司の特権を盾に、したい放題のことをして罪を犯します。父親は戒めます。

「わが子らよ、それはいけない。わたしの聞く、主の民の言いふらしている風説は良くない。もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」(サムエル記上2章24-25節、口語訳)

 祭司エリは職務に忠実な人でしたから、わが子といえども甘やかせず厳しく育てたのかもしれません。結果が裏目だったのです。評論家は、父が厳しすぎるから子がグレたと言って教育の失敗の原因を指摘することができます。しかし、どの父親もその点で五十歩百歩です。自分のところというものはそんなにうまくいかないものです。民の上に立つ祭司としては、神の審きに自ら服さざるを得ません。現にエリには「あなたの家に生れ出るものは皆つるぎに死ぬであろう」(33節)とまで告げられていますし、エリはそれに服す覚悟です。このような文脈の中に、26節の「わらべサムエルは育っていき、主にも、人にもますます愛せられた」という言葉が語られていることは驚きです。サムエル記上について印象深いことは驚きです。サムエル記上について印象深い講解説教をしているヴァルター・リュティはここのところについて

「ここには、審きに先立って神がなさった、ある特別な事柄が述べられています。神の審きは、どんな事情があっても、決して絶望と混同されてはならないものです。確かに、審きということは終点であり恐ろしいことではありますけれども、それは、また同時に、新しい開始(はじめ)でもあるのです」(『預言者サムエル』リュティ p.53)

 と述べています。サムエルについて言われている同じ言葉が幼子イエスについて語られている(ルカ 2:52)ことを考えると、人の世の罪が審かれているさ中で新しい生命が芽生えているというのは福音の真理の中心を示しています。これは決して「母と子」の直接性の容認ではなく、罪への審きを通した共存です。サムエルへの愛は審きを通して示される神の限りない人の世への愛であります。

 さらに注目したいのはサムエルが「人々にも愛せられた」という所です。3章1節には「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた」とありますから「人々」の中には当然エリも含まれています。わが子の教育に失敗している者にも、新しく始まる業が託されていることに大きな励ましを覚えます。また神の大胆さといったものを感じます。保育者や親としての反省からすれば「子を失った」という悔いまでいかなくとも、子に対する秘められた負い目の歴史というものは持っているものです(そういうことを微塵も感じさせない自信を持っている人も時としてはあるかもしれませんが、その陰には打ちひしがれた子の心がある気がしてなりません)。しかし、失敗者にも、大胆に教育が託されているところに、神の守りの確かさがあります。神の守りがあって初めて、人々の祝福があるという順序を逆にしてはならないこと、そして、それを知らされるということは、時として人の心には思いがけない出来事を通してなのだということなど、このテキストから学びたいと思います。

聖書にきく(3)(1980 保育)

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