聖書にきく(3)(1980 保育)

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神戸教会付属 いずみ幼稚園

「キリスト教保育」(キリスト教保育連盟) 1980年6月 所収

(神戸教会牧師・神戸教会いずみ幼稚園園長 46歳)


ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。 マルコによる福音書 4章8節、口語訳

 重い知恵おくれの子どもの施設・止揚学園の園児たちの「はリ絵・止揚展」が大津市で開かれたときの様子がキリスト新聞(3月8日号)に載っていました。ギャラリーの薄明るい照明の中に、鮮やかな原色がいっぱいに広がっているのを見て、記者が「絵が明るいですね」と第一印象を述べると、福井達雨理事長が言下に

「子どもたちがこんなことができるんだという見方をして欲しくないんですよ。暗さや悲しみの結果なんですよ。その裏にある差別を見て欲しいんですよ」

 と言ったとあります。「鬼の福井」と言われる福井さんの激しさがそこにも現れていますが、作品を見ていると、やっぱり強烈な明るさがあります。それは暗さや悲しみがそのまま在りながら、それでもやはり明るいと言わざるを得ない力をもって迫る明るさです。

 ビラには「絵の素晴らしさ、色彩の美しさに心奪われるのではなく、その美しさの影に隠された子どもの真心を、差別を受けた子どもたちの真の叫びを見、聞いてほしいのです」とありますが、子どもの真心が絵にみなぎっていることが、明るさなのでしょうか。それは静止的、客観的、対象的に明るいのではなく、鑑賞者を緊張へと巻き込みながら真実へと心を向ける意味で明るいのだという気がします。

 さて、これは一つの類比なのですが、聖書の福音書の種まきの譬えを読むと「はえて、育って、ますます実を結び」(マルコによる福音書 4章8節)とあります。表面だけを見れば、成長の結果だけに目がとまりますが、実は、その成長の裏にどれだけたくさんの失われた種があるかということが含まれて、この言葉はあります。

 パレスチナでは麦の早まきは、雨季に雨が降る直前に種を蒔き、その後で耕して種が土の中に入るようにするのだそうですが、そのため鳥が来て食べたり、石地で伸びなかったり、いばらに巻き込まれたり(マルコによる福音書 4章4〜7節)することが突然起こったようです。ですから「はえて、育って、ますます実を結び」というのは、福井さん流に言えば「実を結ぶのが当たり前だなんていう見方をして欲しくないんですよ。石地やいばらの不毛のすごさを見て欲しいんですよ」となります。そして、でもなお実を結んでいるという驚きへと目を開かせるような意味合いを持っているのが、この譬えの伝えようとしているニュアンスです。

 古来この「種蒔きの譬」は「神の国」の比喩とする解釈が一番多くなされています。神の国(支配)は、紆余曲折はあっても、結局は、最後には、終末論的に、実現するのだと。また、これを神の国と直接結びつけないものも、イエスに聴き従った人々(民衆)の中に豊かな実りをもたらせる可能性があるのだという解釈がなされています。いずれにせよ、失敗、不毛、無駄を抱え込みながら、それを包み込んで余りある成長、結実、収穫という出来事があることへの驚きを伝えようとする内容を持っています。

譬え話の「譬え」という言葉は、パラボレーといって「並べておく」という意味です。日常の誰にでも知られている事柄を通じて、一般には知られていない事柄を説明しているわけですが、細部にわたって特別な対応があるわけではありません(そのようなものは寓喩アレゴリーといいます)。譬えの中にある種蒔きとその後の成長の伸びゆくさま、勢いの様子、実りの豊かさ、そこから感じられる可能性と並べ置かれて、信仰という人間の全人格的生の奥深い領域で感じとられる真実(リアリティー)が暗示されています。

 譬えはある場合には説明であり示唆であり投影でありましょう。しかし、もし、譬え話として語られている事柄それ自身が、その人の経験の領域にないとしたら、それは、もう譬えとして活きてきません。とすると、種が芽を出すさま、生えて育つ成長のみずみずしさ、花が咲き実を結んでいく豊かさの原体験というものの大事さが思われます。

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はその御手のわざをしめす。この日、言葉をかの日につたえ、この夜、知識をかの夜におくる、語らず言わず、その声きこえざるに、そのひびきは全地にあまねく」(詩篇19編、口語訳)

 とあるように「語らず言わず」と言葉を超えた原体験によって、神の栄光がひびきとして伝わる様が詩篇にうたわれていますが、このような全地の躍動の体験をどれほど私たちが大切にしているでしょうか。

 都心のコンクリートのマンション住まいの子どもたちが少しでも自然に触れることを願って、春の遠足に苺園に行く計画を立てたことがあります。

 大きなつぶらが緑の葉の下に見え隠れする苺の畑で、新入園の園児たちが母親と苺を摘む姿までは良かったのですが、摘んだ苺を持ち帰る量が決められていたためか、熟れ過ぎの苺をあどけなく摘んでカゴに入れるわが子に「アホ、そんなもの取ってきてもあかんで」とののしる母親の現金さに、何とも虚しいものを感じたことがあります。苺の実りとみずみずしさを感じ味わっていくことの出来ないほどにゆとりを失った経済第一主義の現実、とまでは言いたくありませんが、我々を取り巻く価値観の一端を覗かせています。

 それでも子どもたちは、園庭の隅からミミズや毛虫やサナギを探し出して来て、彼らと友だちになりますし、チューリップや朝顔やヒヤシンスに水をやって、その開花を劇遊びにまでして楽しみますし、メダカやおたまじゃくしやタニシやカメの成長を見守りますし、恵まれた園や地域では、ヤギやウサギが飼育され、畑が耕されて、作物の成長が楽しまれていることでしょう。

 私は、自然を通しての神という自然神学的な直接性における「神」を言おうとしているわけではありません。しかし、神と人間という人格的呼応の関係を「関係の類比」として受けとめていくことの出来る基盤として、自然への感動があってよいではないか、という意味であります。動物はなつくから、類比の基盤としては身近なようですが、逆に巻き込まれると比喩とはなり難くなります。そうかと言って無生物の自然は静謐に過ぎます。

「語りたきことの極みは石に託して」という年賀状の言葉をいただいたことがありますが、もう老境の域の方からです。情は移らないが、生き生きとしている植物の成長に託されている比喩こそ、神の可能性、そして成長が伝わってくるにふさわしい題材ではありますまいか。

野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。」(マタイ 6章28節、文語訳)

 聖書で、もっとも美しい言葉の一つです。

聖書にきく(4)

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