ふりかえるマリヤ《ヨハネ福音書 20:11-18》(1980 礼拝説教要旨・週報・イースター)

1980.4.6、神戸教会、復活日(イースター)
説教要旨は4月13日の週報に掲載
▶️ 牧会祈祷ー復活祭礼拝にて

(牧会22年、神戸教会牧師3年目、健作さん46歳)

ヨハネによる福音書 20:11-18、説教題「ふりかえるマリヤ」

”イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってへブル語で「ラボニ」と言った。それは先生という意味である。”(ヨハネによる福音書 20:16、口語訳)


”さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓にゆくと…”(ヨハネ福音書 20:1、口語訳)という書き出しでヨハネ福音書の復活物語は書き始められている。

暗いうちに」という句が心を捉える。

 慕ってやまない師の墓に、禁が解かれる安息日明けを待って赴(おもむ)くマリヤの心情と共に、復活の真理に出会うマリヤの鈍さ・愚かさ・暗さの漂いをこの句は象徴している。


 復活は「空虚な墓」の物語に包まれて示される。

 3節から10節のヨハネ独特の二人の弟子の物語では、弟子たちが「空虚な墓」にそれなりの復活信仰理解を持って立ち去ったことが語られているが、マリヤは「墓の外に立って泣いていた」(11節)だけであり、また行き止まりの墓の中を身をかがめてのぞく(12節)だけであった。

 そして「だれかが、わたしの主を取り去りました」(13節)と言った。

 マリヤの追憶にある主、思い入れている主、彼女にとっては過去の人となった主はすでに取り去られているのに。

 主観的過去像においてしかイエスに出会うことの出来ない不自由な人間が示される。


”そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。”(ヨハネ 20:14、口語訳)


 しかし、泣きうろたえること以外に処し方を知らぬ一人の女を慰めることが「復活の主の最初の行為」(シュラッター)であった。

”イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。”(ヨハネ 20:15、口語訳)


 地上のイエスは羊飼として失われた羊をたずねた。ヨハネ福音書はそのことを強調する。

”わたしはよい羊飼である。よい羊飼は羊のために命を捨てる。”(ヨハネ福音書 10:11、口語訳)


 そして、羊飼が名を呼んで羊を招くように、ここでも「マリヤよ」という呼びかけが、マリヤを振り返させる。

”イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってへブル語で「ラボニ」と言った。それは先生という意味である。”(ヨハネによる福音書 20:16、口語訳)


 その「声」が、穴を見つめ、過去を想っていたマリヤを過去と訣別させる。

 しかし、愚かなマリヤは、そのイエスに触ろうとする。

「さわってはいけない」(ヨハネ 20:17)とイエスは叱る。

”イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。”(ヨハネ福音書 20:17、口語訳)


「さわる」は「捕まえる」「すがりつく」という意味。

 イエスをまた自分の手の中に取り込もうとすることへの叱責である。

「父のみもとに上っていないから」(20:17)とは、助け主なる聖霊が送られること(ヨハネ 16:7)と関連している。

 聖霊は自由を得させる神の働きと賜物であり、過去にしがみつく生き方から私たちを自由にし、穴を見つめる生き方から「振り返させる力」として働きかける。

 復活の信仰は、そのことを起こさせる起点である。

 それは、マリヤを振り返らせ、「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」(詩篇 30:5)という御言葉の世界へと招く。


”その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。”(詩篇 30:5、口語訳)


(1980年4月6日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)


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