受難の証言《詩篇 22:1-31》(1980 礼拝説教要旨・週報・棕櫚の主日)

1980.3.30、神戸教会、復活前第一主日、棕櫚の主日
説教要旨は4月6日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 22:1-31、説教題「受難の証言」

”わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。”(詩篇 22:1、口語訳)


 この詩を、この詩そのものとして味わうと共に、新約の福音書に、この詩がイエス受難の証言として、その句を用い、また物語の枠組みとして用いられていることの意味をもう一度考えることにより、イエスの受難を偲び、そこから学びたい。

 詩篇の分類では、この詩は「個人の嘆きの歌」に属する(3-7、42-43、51、67-71、86、109、120、130、140-143篇などが代表的)。


第1

 苦悩の現実感をここまで伝えていることに圧倒される。

 何故と問うても理由や原因を誰も答えることができず、神に訴えても応えを得られない孤独と絶望の様を深く思う。

 クリストフ・バルトは『詩篇入門』(新教新書 1967、畑祐喜訳)で次のように書いている。

”ここで嘆き、救いを懇願して叫び声をあげているのは、試練にある個人で……病気・不幸・誹謗・憎悪・迫害・俘囚・欠乏・あるいは災難が ー たしかにこれらのいくつかが、同時に彼を襲ったであろう。”(クリストフ・バルト著『詩篇入門』新教新書 1967、畑祐喜訳)


 特に6節「わたしは虫であって、人ではない」は、人間としての主体的あり方の脆弱性や脆(もろ)さを表現している。

 石原吉郎は『一期一会』(教団出版局 1978)の中に「《体験》そのものの体験」という一文を残している。

 彼は昭和20(1945)年冬から28年(1953)年冬まで、ソ連のシベリアに勾留され、強制収容所にいた。

 それはもはや想像を絶する人間破壊の凄まじい現実であったという。

 そこで疲弊し衰弱する時、現実を《体験》として受け止める主体など存在しようがない、と言っている。

 読みながら、虫のように弱い自分の内面をしばしば想った。


第2

 詩人は9節で「しかし」という言葉で母の胎を出ずるや否や神に守られている「神の選び」を告白している。

 そして神を賛美する。

 神への讃美告白と苦悩との極度の緊張関係のあるところにこの詩の特徴を見る。

 アフリカのカトリック神父が作成した版画のスライド「十字架の道行き」が先般、アルトハウス宣教師により紹介されたが、苦悩の”黒”と生命の”赤”と悲しみの”白”の3色の色のバランスでイエスの受難が表現されているところに、我々の信仰の生き方を想った。

 いのちは苦しみと同居してある。

 苦しみを受ける決断なくして、いのちはない。

 24節はその決断への勇気を促す。

”神は貧しい者の悩みを軽んぜず、嫌わず、み顔を彼から隠すことなく、彼が叫ぶとき聞き給う。”(詩篇 22:24、関根正雄訳『旧約聖書 詩篇』岩波文庫 1973)

”主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。”(詩篇 22:24、口語訳)

 声高く叫んで息を引き取られたイエスはここまで言葉にされないまま、「いのちと絶望」との交錯の激しさをもって我々を招いておられる。

(1980年3月20日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)



説教インデックス

週報インデックス

1980年 礼拝説教リスト

1980年 週報

error: Content is protected !!