日本キリスト教婦人矯風会「婦人新報」No.1337、2012年12月号


BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)
(単立明治学院教会牧師、79歳)
クリスマス・メッセージ
「…別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイによる福音書 2:1-12)
「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ 1:5)。これは象徴的なクリスマスのメッセージである。この「光」についてどんなイメージを描くだろうか。闇の地平線に曙光の射す、地球規模の創世記1章を想像する人もいるであろう。クリスマスイブの清らかな讃美礼拝の燭火を思う人もいるであろう。3.11以後だから、首相官邸前のデモで「脱原発」を叫ぶ手の中で揺れるローソクの光を思う人もいるに違いない。その「光」は鉄面皮、厚顔無恥、無節操、慇懃無礼な官邸の主には理解されない。
光は「象徴言語・イメージ言語」だからこちらの想像力に対応する。「象徴言語」といえば特にヨハネ福音書には「光」「風」「パン」「羊」「羊飼い」「葡萄の木」「道」「麦」といった豊かな「福音」の伝達手段がでてくる。だが、ヨハネはそれを言い換えて「叙述言語、説明言語、神学言語」でも語る。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と。その内容をパウロ流に表現すれば「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで従順でした」(フィリピ 2:6-8)となるであろう。どちらかというと「叙述、説明、神学」の表現で「福音」を理解することが私たちには多いのだが、3.11以後、もう少し「象徴言語」の方に重きをおいて聖書理解を深めてもよいのではないか。
3.11以後、聖書の読み方に取り組んだ論考に『滅亡の予感と虚無をいかに生きるのか・聖書に問う』(新免貢、・勝村弘也、関西神学塾編、新教出版社 2012年3月)がある(「本のひろば」2012年7月号に、拙稿書評あり)。勝村さんは「旧約における滅亡を生きる知恵」というテーマで、当時の律法本位の体制側「御用神学」が歴史の破局の中で行き詰まった情況で、箴言、哀歌、ヨブ、コヘレトなどには「滅亡と虚無」を生きる知恵が示されているという。「研究上に実に腹立たしい現実について」の一項では、今までの研究者は「破滅」など否定的な概念を取り上げてこなかったので『聖書事典』にはその項目すらないという。「知恵」「賢者」はあっても対概念の「愚行」「愚者」は出てこない。聖書はネガティブとの関係でポジティブを語る。「自分を賢いと思い込む人を、お前は見た。彼よりも愚者の方に望みがある」(箴言26:12 勝村訳)などまさに破局を生きる知恵だという。「原子力ムラ」を維持してきた賢い御用学者が、資本と権力に同調して、真実を語らなかったことに類比されてよい。
新免さんは「滅亡の予感の中でイエスの生に戻る」でイエスが棄民状態の人々に示された「共感と共苦の働き(スプランクニゾマイ)」に破局の中を生き抜く「命」を読んでいる。聖書の表現を、単なる神学的解釈から解放して、放射能汚染の時代の中で見直す大胆な読みの転換を主張する。例えば、「よきサマリヤ人の譬(たと)え」の「傷(トラウマ)」に被災者の痛みを読み、「目に見えない」に「内部被曝(ひばく)」を想像するなど。
私は、マタイの降誕物語も「象徴言語」を宿した物語としての読み直しを促された。例えば「東の方から来た博士たち」。従来、東の博士(占星術の学者)たちはマタイ福音書の「異邦人の福音書」という性格での歴史的文脈で解釈されてきた。ユダヤの王・祭司長・律法学者という既成の秩序を担う者らの無知蒙昧に対して、「救い主」は、意外にも、異邦人の探求者に示されたという逆説的メッセージの役割を担ってきた。「灯台下暗し」である。しかし、3.11以後、もう少し想像を広げれば、その異邦人たちは「東の方」の専制支配下で「御用学者」の枠組みで窒息させられていたので、その枠を破って、真理を求め、旅にでたのではないか。もう一つ別の「命」の可能性に賭けたのであった。彼らは「イエスとの出会い」という命との関係を宿して別な道を通って帰っていく。別な道とは何か。ヘロデに象徴される権力の支配とは別な道である。現代に投射すれば、米国一極支配とは別な道であろう。
3.11以後、「核」維持の根源が米国支配の経済・軍事・政治にあることが顕になった(”原発ゼロ・閣議決定回避は米の圧力” 10月20日 東京新聞)。内橋克人氏が『もうひとつの日本は可能だ』(光文社 2003年)で「他国を攻撃して破壊し、その復興を自国企業のビジネス・チャンスにする」(p.169)とイラク「復興」商法の極意を明かしている。それは核による軍事支配維持の中で行われる。沖縄へのオスプレイ配備に固執するのはそこが世界戦略の重要拠点であるからである。一事が万事である。
しかし、3.11以後「別な道」は確実に広がっている。「私たちがここに集まっているのは、未来のため」。「7.16さようなら原発”17万人”集会」での澤地久枝さんの言葉だ。「国の偉い人に聞きたい。大切なのは僕たち子どもの命ですか、それともお金ですか」(脱原発世界会議での10歳の小学生の言葉)。
私たちは博士たちが別な道を通って帰ってゆく先を想像したい。聖書の物語はイエスとの出会いを転換点として帰路につく。テキストでは「ひれ伏して拝み」とあるが、初代の教会はイエスがキリストであることの神学的表現を強調するあまり礼拝が目的になっている。そのためイエスとの出会いが博士たちの到達点になってしまっている。しかし物語はその先へと続くのだ。往路から帰路への転換点が「別な道」即ち「いのちを選ぶ」道の出発点である。彼らの帰る遥かなる地は闇・専制君主の支配するところである。闘いはこれからだ。イエスとの出会い(礼拝)は到達点ではなくて帰路からの闘いの始まりである。しかしそれは「光」と共なる闘いである。このクリスマスを改めて新たなる出発の時としたい。
(単立明治学院教会牧師 岩井健作)
