2011.3.4 執筆、掲載誌不明
東日本大震災の1週間前
(明治学院教会牧師、健作さん77歳)
私たちは無意識のうちに「戦後66年」などと時の経過を表現する。
時の流れを考えるのに、あの太平洋戦争の終結は一つの区切りではある。
小学校6年で1945年の敗戦を迎えた私などの世代にとっては「戦後」というのは時の区切りであった。
戦争のない新しい時代が来たのだという雰囲気の中で『あたらしい憲法のはなし』(文部省 1947)を学んだものである。
後に厳しくその歴史意識を沖縄の友人に問われた。
”え−っ戦後?
沖縄はまだ戦争が終わっていませんよ。”
”最後の不発弾が処理されるまでは『沖縄戦』は終わらない。”
糸満市小波蔵の「老人ホーム沖縄偕生園」の不発弾による爆発事故、与那原町の219人が避難した「5インチ艦砲弾」の処理。
毎日のように沖縄の新聞は不発弾の危険を報じている。
沖縄戦では20万トンの爆弾が使われた。そのうち1万トンが不発弾であった。
まだ2500トンが地中にあるという。
1日11か所52発の計算で不発弾処理が今も行われている。
この計算ではあと80年はかかるという(2009年5月6日 テレビ朝日放映)。
この先80年は「戦後」ではないのだ。
その「沖縄戦」とは何であったのか。
「国体(天皇制)」を守るための本土防衛の時間稼ぎのために捨て石になって、民間人を巻き込んだ過酷な地上戦であった。
十数万人が死んだ。
そして、地上戦後の沖縄の米国統治を容認したのは「昭和天皇」であったといわれている。
連合国の多くは天皇の戦争責任を問うべきだと主張した。
だが、連合国軍最高司令官マッカーサーは「天皇が国家の頂点に位置すべきこと」を用いて敗戦後の日本統治を行うことを計画し、憲法の骨子を指示した。
その代わりに、憲法第9条に第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍そのための戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」を入れて、連合国軍諸国をなだめたという。
沖縄では、米軍政府による統治が継続された。
「本土」の人間は、アメリカ施政権下の沖縄では英語を喋るようだ、くらいの認識しかなかった。
「あなた、日本語がお上手ですね」とパスポートを持って日本「留学」に来た沖縄の友人は言われたという。
その間、講和条約発効(1951年9月8日)により、憲法の法の下では米軍の駐留が不可になるのを防ぐため、首相吉田茂は同じ日に署名調印して「日米安全保障条約」を結び、憲法第9条を骨抜きにした。
1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した。
それは安保体制の日本への復帰であって、沖縄人の願いであった、いわゆる「平和憲法」の日本への復帰ではなかった。
以後、アメリカの世界戦略に位置付けられた軍事基地のある県として、日本国土の0.6%の面積に米軍基地の75%が置かれ、返還時には「核持ち込み」の密約まであったことも明らかになった。
血みどろの反基地闘争の歴史の上で、今、沖縄は「米軍基地NO」を日本政府と米国に突き付けている。
その証しは「(普天間閉鎖、国外、県外移設を求める)県民大会」(2010年4月25日)に9万人が読谷に集結したことに現されている。
その時、私は東京の連帯集会とデモの中にいた。
その集会は千人であった。
沖縄の現実、米軍基地が生活と共にあるという意識を持つならば、東京では90万人の集会が行われてもよいはずなのに、その落差を負い目とし、深く負った。
”「本土」には沖縄を想う意識があるのか?”
沖縄県の企画部が「2010年 米軍基地返還跡地への夢 絵画コンクール」入賞作品を公表した。
県内の小・中学生から1001人の応募があったという。
ホームページで、小学生低学年「にじいろのでんしゃにのってみたいな」(稲福萌花)、おなじく高学年「沖縄だよ ぜーんぶ集合」(城間康平)、中学生の部「未来へ続く美らパーク」(島袋虹)と、それぞれの最優秀賞を受けた作品を観てみた。
どの作品も美しく、青い海と空の下、緑の島で子供たちが躍動している情景が描かれていた。
その彼等彼女たちは、今は爆音の中にいるのだ。
この子供たちの夢を実現するのは「本土」の憲法実現を願う大人たちの責任ではないかとの問い掛けを受けた。
憲法への思いは、憲法本文の行間に、沖縄への意識を絶えず抱いてこそ、現実のものとなる。
沖縄から米軍基地がなくなる日を目指して、憲法の実現の戦いを続けて行きたい。