2011.3.13、明治学院教会(223)、受難節 ①
東日本大震災の2日後
(明治学院教会牧師6年目、牧会52年、健作さん77歳)
テサロニケの信徒への手紙 第一 2:17-3:10
”あなたがたの顔を見たいと切に望みました。”(Ⅰテサロニケ 2:17)
1.テサロニケにおけるパウロの伝道は、ユダヤ人の迫害のため、短期間に終わった。
生まれて間もないテサロニケの小さな群れ(教会)を容赦なく襲った難問についても心を痛めていたに違いない。
テサロニケ再訪はパウロの宿願であった。
”あなたがたの顔を見たいと切に願った”は言葉通りである。ここには切なる情がこもっている。
2.「切に願う」は「エピチュミア ”epithumia”」という言葉。語源は「犠牲を捧げるために殺す、突進する」という大変激しい言葉である。
ギリシャ語辞典には「① 切望、憧れ ② 情欲、欲望」とある。用例を見ると②の方が多い。つまり、情の発露というものは、そんなに綺麗事ではない。
男女の間、肉親、同胞、同志という関係では「情」が発露の基盤となる。しばしば「情欲、欲望」は理性を失わしめるような直接的人間関係を露わにする。
これに対して、信仰による人間関係は、自己を神によって否定媒介的に「他者」と関わらせるものだ。
わかりやすく言えば、情が抑えきれないからといって、自分の欲望で相手に関わるものではない。
3.イエスは肉親の関わりの直接性を否定して、次のように言った。
”神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。”(マルコ 3:35、新共同訳)
「信仰による」関わりが、情の切実さまでも削ぎ落としてしまえば、交わりの切実さはない。
例えば、昔から教会では「兄弟姉妹」という言葉を用いてきた。
神によって出会ったものは皆兄弟姉妹だという意味。
「人間みな兄弟」は部落差別をなくしてゆく運動に用いられている。
沖縄では「イチャリバ・チョウデイ」といって「一度出会ったら皆兄弟」だという。
そこには情がある。
しかし、もしそれが建前であるなら、虚しい(ある場合には、それを逆手にとって悪巧みを行う場合すらある)。
神による兄弟姉妹に出会って、事実「情を伴う関係」が、パウロとテサロニケの人たちの関係であった。
直接的な人間の情の発露ではなく、また同じ使命に生きる「同志の情」といったものでもなく、神によって結ばれた「切実さ」なのである。
4.この箇所では、3つのことが言われている。
① 信仰の確立(2,10節)。
② 艱難に耐えること、対社会的な問題である(3-4節)。
③ 愛に生きること。好意を持って覚えていてくれること。会う機会を望むこと(6節)。
3:10節では「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたい」といっている。
「会う」とは何か。
3:6節の「うれしい知らせ」の原語”エウアンゲリゾー”は「よい知らせをもたらす、福音をもたらす」。
”ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。”(Ⅰテサロニケ 3:6、新共同訳)
つまり、テモテがもたらした「会いたい」という人間的吉報は、同時に「福音(神のよきおとずれ)」と二重写しに重なっているのである。
「真の友は艱難の時に知る(ロシアの諺)」(東京新聞「洗筆」 2011年3月12日)
「阪神」の時もそうであったが、本当に涙がこぼれる出会いが、地震を契機に与えられた。
もちろん多くの苦難の中でであった。
そこをよき知らせとしたい。
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