書評『滅亡の予感と虚無をいかに生きるのか 聖書に問う』

新免貢・勝村弘也著 関西神学塾編、新教出版社

「本のひろば」 2012年7月号所収

 本書はカメラの三脚のように三つの立脚点に立っている。
 第一は聖書学への立脚。新免さんは使徒行伝を中心とした新約の研究者で宮城学院女子大学教員。勝村さんは知惠文学が専門の旧約の研究者で神戸松蔭女子大学教員。ご両人共に、体系的神学からの聖書の読み方には厳しい批判を持つ。聖書にはヨブ記のように「滅亡の予感」の中でなお「神に問う」文書がある。それを3.11以後の現在と相関させて描く方法をもって、改めて聖書に向き合う。

 第二は被災地の感覚。新免さんは神戸、仙台と二度大震災を体験した。その経験に立って思考を進める。勝村さんも神戸で大震災を経験し、今闘は「神戸国際支援機構」の元気のいい岩村義雄代表の活動に加わり(p.92)、主として石巻の津波で学生と一緒に活動した。しかしこの本の被災地感覚は、日本基督教団兵庫教区の永田センターの柴田信也さん(p.127)や庄司宣充さん菅澤邦明さんの被災地での持続的活動による所が大きい。「滅亡の予感と虚無」とは福島の農家、福島原発隣接地域の帰宅不可能地区の人たち、風評被害を含めて見通し不可の漁業者、避難するか、留まるか、民衆の分裂と亀裂、放射能物資の「中間貯蔵所」など虚構の政治状況、東電・政府の欺瞞・無能など、その総体を自分の事として捉えた所から紡ぎ出された関西神学塾ならではの言葉である。

 第三はその関西神学塾。関西での1970年代からの教会変革の問題意識を継承して、桑原重夫さんや菅澤邦明さんなどが30年前に立ち上げた運動である。今回、8月18日に特別講座を行った。その記録が本書である。新教出版社がブックレットの企画に入れて下さったことは英断であり、評者自身、関西神学塾の関係者の一人として感謝に堪えない。

 前置きが長くなった。新免さんの論点はその標題「滅亡の予感の中でイエスの生き方に戻る」そのものである。第一部、福音書のイエスが「飼う者のない羊の群れのように、窮迫し、投げ捨てられていた」群衆に関わる姿を「無常」(「常住」ではない「滅び」に瀕した旅路)と捉え「共感と共苦を覚えた」(スプランクニゾマイ、の私訳、新共同訳「憐れむ」)生き方と表現する(p.17)。第二部。聖書の表現を放射能汚染の中で大胆な読みの転換の契機として捉えよと主張する。例えば、「良きサマリヤ人のたとえ」の「傷(トラウマ)」に被災者の痛みとして。「目に見えない」を「内部被曝」を想像するレトリックの効果へと。聖書の読みの射程の拡大を提唱する(p.32-35)。第三部は小論「リスボン大地震に寄せて」。キリスト教教育への自省にまで及ぶ18ページの論考。第四部と結びが続く。

 勝村さんの論点は、その標題のように「旧約における『滅亡』を生きる知恵」が探求される。特に「破滅」に関する表現は旧約はきわめて多いが、聖書神学の枠組みではこれをマイナスに評価して適切な研究の位置付けが与えられていないことを批判する。例えば「聖書事典」には項目すらない。「福島」を想像させる、旧約独特の「行為・帰趨連関」(クラウス・コッホ、巻き込まれてゆく)の考え方が紹介される(p.85)。「自分を賢いと思いこむ人を、お前は見た。彼よりも愚者の方に望みがある」(箴言26:12)の引用では日本の「賢さ」が批判される。かつてドイツ留学時代に「三発目の原爆は日本に落ちる」と聞かされた。それが「フクシマ」で現実化した時の日本人のだめさ加減を嘆く。だが旧約では「嘆き」は高い文学性を獲得していると言い「破滅」を生きる知恵への示唆が語られる。加えて、箴言、エレミヤと哀歌、ヨブ、コヘレトにおける「破滅」「滅亡」「虚無」について丁寧に頁が割かれ、知恵文学には既成の価値観を根底から揺るがせる知恵があること(p.131)が指摘される。読んでいて知恵文学のしたたかさを感じた。

 この本のもう一つの特徴は、本文中の事項についての解説が欄外に注として豊富に掲載されていることである。引用著書名、辞書的・学習的知識を養われながら読むことが出来るのが楽しみを大きくしている。是非手にとって見て戴きたい。

定価840円、新教出版社

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