ヨブ記を読む(3)《ヨブ記 6:14-23》友は、いつくしみのゆえに(1994 週報・神戸教会)

1994.10.30、神戸教会週報、降誕前第8主日

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)

(サイト記)翌30日(月)〜31日(水)、兵庫教区教師・教育主事研修会に出席(於箕面)。

(サイト記)翌週の婦人会一泊研修会の案内。
 講師・野本益世さん(元神戸教会員、当時賀茂教会員)、テーマは「『姉妹』ー教会と奉仕」。


ヨブ記 6:14-23、説教「友は、いつくしみのゆえに」

”その友に対するいつくしみをさし控える者は、全能者を恐れることをすてる。”(ヨブ記 6:14、口語訳)

 ヨブはうめき、自らの生を呪う、という一方の事態に対し、他方「友人」のエリパズは、これはいけないと、自分のあらゆる人生経験とそこから得ている宗教的・哲学的知恵をもって、ヨブを戒め、諌めた、というのが、ヨブ記3章(ヨブの独白)から4章〜5章(エリパズの説教)への構図でした。


 私たちが、ヨブの側に身を置く時には、嘆きを「言葉」にまで持ち出した積極性に励まされます。

 それは「神に問う」というヨブ記を貫くテーマへと発展します。

 他方、エリパズの側に身を置く時には、「言葉」をもって、実態としてそこにある悩みを締め括ってしまってはいけない、という「言葉の破れ」を知らない者への警告を受け取ります。


 このことの対比を鮮やかに示しているのが、ヨブ記3章25〜4章2節への続き具合です。

「わたしは戦慄(わなな)く」というヨブの言葉に続け「あえて一言言ってみよう」とエリパズ(新共同訳エリファズ)の説教が始まります。

「あえて一言言う」を直訳すると、「言葉を試みる」です。

 この「試みる(”ナーサー”)」は、サムエル記上17章39節では「慣れている」と訳されます。

 ペリシテの武将ゴリアテと戦うために出陣する、羊飼いの少年ダビデに、サウル王が「いくさ衣、青銅の兜、うろことじの鎧」を身に纏わせようとする時、少年は「慣れていない」と断るのです。


”ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。”(サムエル記上 17:39、口語訳)


「言葉を試みる」とは、エリパズが自分の人生観・信仰観・哲学・神学をヨブに当てがったということではないでしょうか。

 彼は「当てがう言葉・観念体系・説教」を持っているのです。

 実は、私たちもこういうことをやってしまっている自分を顧みて赤面せざるを得ません。


 福井達雨氏(止揚学園リーダー)が少々乱暴な表現ですが、「教師はいても教育者はいない、医師はいても医者がいない、牧師はいても牧者がいない」と、人と共に立つべき者のあり方を批判しますが、相手の悩みを共にする前に「言葉」を覆い被せるあり方に反省を求めているのだと思います。


「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)という十字架上のイエスの叫びに「言葉」は返って来ていません。

「言葉は肉となって」(ヨハネ 1:14)しまっているのです。


 さて、6章は、エリパズへのヨブの応答です。

 憤りが正しく測られるように(ヨブ記 6:1-7)。

 自己自身の義の確信と死への願望(6:8-13)、友人への失望(6:14-20)。

 正しい言葉を語れ(6:21-27)。真相に向かう精神(6:28-30)。

 以上が内容です。


”絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ。さもないと、全能者への畏敬を失わせることになる。”(ヨブ記 6:14、新共同訳)


(1994年10月30日 神戸教会週報 岩井健作記)


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