真理とは何か《ヨハネ 18:28-38》(1996 週報・説教補助)

1996.3.17、神戸教会
復活前第3主日・受難節第4主日

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)

この日の説教、ヨハネ 18:28-38「真理とは何か」岩井健作


 今日の箇所は、受難物語のうち「ピラトから尋問される」という場面である。

 福音書記者ヨハネのメッセージを先に抜き書きしてしまえば、次の言葉になろう。

「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためである」(32節)

 ”それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。”(ヨハネ 18:32、新共同訳)

 その「イエスの言われた言葉」とは、ヨハネ3章14節、8章28節。


 ”そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。”(ヨハネ 3:14)

 ”そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。”(ヨハネ 8:28)


 これに続いて、今日の箇所ヨハネ18章37節。

 ”そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」”(ヨハネ 18:37)


 さて、「ピラトからの尋問」は、共観福音書の枠組みであるが、ヨハネだけが長い。

 マルコ・ルカは5節分、マタイは6節分、ヨハネは19節分を充てている。

 今日の箇所にも、読んでいて素朴に疑問を持つ問題が2つある。

 一つは、28節後半。

 「彼らは自分で官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」というく。

 ”人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。”(ヨハネ 18:28)

 これでは共観福音書では終わっているはずの「過越の食事」が未だのこととなり、日が一日ズレてしまう。

 議論を省略して結論だけ言えば、この記述が必ずしも日付のズレを意味しているとは取らないで、解釈できる道はある。

 むしろ、ヨハネの文脈では、イエスの殺害という大罪(真理への挑戦)とユダヤ教の律法規定を犯すという部分の違反という、レベルの異なることが並行しているところに、文意がある。

 とてつもない事柄の軽重への判断の誤りが決定的なのである。


 もう一つは、イエスの死刑宣告をピラトに押し付けてしまっている箇所。

 31節後半の、ユダヤ人には人を死刑にする権限がない、というのは必ずしも真実ではない。

 彼らが行うとすれば「石打の刑」となる。

 とすると、ヨハネの、イエスは「地から」十字架の木に「上げられる」という形の「栄光即死」という、イエスの言葉の成就が成り立たない。

 イエスがこの世の権力(ユダヤ人と共に総督ピラトに代表される力)と対峙し、それを超えて行くところに、受難の底を流れる勝利が示されている。

 ピラトは、官邸を出たり入ったりする。

 このピラトの行動は、神の真実の人(真理)とユダヤ人の間に揺れる者の姿を示す。

 ”真理なんて、何のことだ?”

 と言ってしまったピラトの結末、開き直りを「他山の石」、戒めとしたい。

 ”「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」”(ヨハネ 18:37b-38)

(1996年3月17日 神戸教会週報 岩井健作)


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