1996.3.10、神戸教会
復活前第4主日・受難節第3主日
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)
この日の説教、ヨハネ 18:12-27「二つの告白」岩井健作
今日の箇所は、ヨハネ福音書の受難物語(18〜19章)のうち、アンナスと大祭司カヤパによる尋問と、ペトロの否認の二つの場面である。
ヨハネの受難物語は、全体の筋として共観福音書が伝えている物語の枠を守っていながら、ヨハネの強力な解釈が施され、随所に独自の挿入や削除が行われている。
十字架の死の意味づけを、マルコは旧約の成就としての神の意志に見ており、パウロは十字架を贖罪死による救済の出来事としている。
しかし、ヨハネでは、イエスの十字架は、異郷の世界からの救済者(メシア)の到来として告知され、この世に対する救済者の勝利として描かれる。
ヨハネでは、イエスは十字架に”上げられる”(3:14、8:28、12:32)。
”わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。”(ヨハネ 12:32、新共同訳)
それは即「栄光を受ける」(7:39、12:16、12:23、13:31-32、17:1、17:5)ことであり、神の子は自ら進んで死の門出をする。
”イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。”(ヨハネ 17:1、新共同訳)
それゆえ、十字架の死は、地上において自分の業を従順に成し遂げ、栄光を受ける「時」の到来と共に栄光を明示する。
神の子は、ユダヤ人とローマ人によって十字架上に殺されたと思われているが、実はこの世に勝利したのである。
これはヨハネ独特の証言である。
以上のような論述からすれば、この世の勢力は強大で暴虐であればあるほどに、イエスの勝利が強烈で確固たるものとして明らかにされ、証言されることになる。
ヨハネでは「この世」を代表する《宗教的権威》としてのユダヤ最高法院との対決は、もはや11章で終わり、既にここで殺害決定の判断は下されてしまっている。
”この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。”(ヨハネ 11:53)
”祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。”(ヨハネ 11:57)
18章28節以下、ローマ総督ピラトの審問は、もう一方の《政治的権力》としての「この世」が代表され、これは共観福音書に比べて、2倍も詳細な描写と説明がついている。
”人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。”(ヨハネ 18:28)
これらの点を背景にテキストを読むと、ヨハネは次の2点をよく描写している。
・《権力の暴虐》:何の審問もないまま、先にイエスを「縛った」(ヨハネ 18:12)。
・《権力の連携の巧みさ》:ローマ兵士と千人隊長とユダヤ人の下役たちとの協力(18:12-18)更に大祭司カイアファとの連携
ヨハネは、ペトロの否認(ヨハネ 18:15-18)について、共観福音書的視点である《決意と挫折》という読みをしない。
13章38節の《預言の成就》としてのみ扱う。
”イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」”(ヨハネ 18:38)
むしろ「父のみもと」(14:12)に行くイエスは、人間的な可能性の彼方にいる。
”はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。”(ヨハネ 14:12)
人間の決意だけでは行くことの出来ない栄光の世界の質的違いが強調される。
イエスは、世に向かって”公然”(”パレーシア”)と語る(ヨハネ 18:20、7:13、7:26、11:14、10:24、7:4、11:45)。
”イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂で神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。”(ヨハネ 18:20)
いずれにせよ、ヨハネが告げるように、救いの出来事は確かであり、応答する信仰も鮮明でなければならない。
(1996年3月10日 神戸教会週報 岩井健作)