イエスの逮捕《ヨハネ 18:1-11》(1996 週報・説教補助)

1996.3.3、神戸教会
復活前第5主日・受難節第2主日

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)

この日の説教、ヨハネ 18:1-11「イエスの逮捕」岩井健作


 受難節(レント:1996年は2月21日”灰の水曜日”より)に入り、聖書の言葉を養いとして生かされることを願いつつ、ヨハネの受難物語を学びます。

 ヨハネ福音書の構造を見ておきます。

 ヨハネは、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)をよく知っており、自分の福音書の参考にはしていますが、独特なイエス理解を強烈に示しています。


 1章1〜8節は美しい序文です。

 第1部は、1章19節〜12章50節。

 世(ユダヤ人)に対するイエスの啓示のわざ。

 イエスの行動が、公然と、挑戦的になされ、イエスとは誰かが示されています(10章36節では「神の子」)。

 ”それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。”(ヨハネによる福音書 10:36、新共同訳)


 第2部は二つに分かれます。

 13章〜17章は「最後の晩餐と弟子たちへの告別説教」「第2告別説教」「最後の祈り」が語られます。

 ここでは、イエスが去った後の「助け主」のことが語られ、内省的に、読者たちがイエスの弟子たちと自分たちを重ね合わせて自分の信仰を顧みるように促しが与えられます。

 そして、今日のテキスト(ヨハネ 18:1-11、新共同訳見出「裏切られ、逮捕される」)。

 第2部の後半は、イエスの受難と復活の物語(ヨハネ 18:1〜20:29)で、ここでは第1部に続き、再びイエスの能動的な啓示が示されます。

 世に対する勝利者、十字架が即栄光、救いの時の到来が語られます。

 読者は現実の迫害にもかかわらず、新しい宣教活動への促しを受けます。


 

 以上のような背景を心に収めて、18章を読みますと、ヨハネの受難物語は「この世の敵に勝利していく」勢いに満ちたイエス像が示されています。

 まず、共観福音書の「ゲッセマネの祈り」がヨハネ福音書には出てきません。

 もはや17章で内容的に完了しています。

 ”園”(ヨハネ 18:1)とだけ記されている場所は、エルサレムの裕福な者・イエスの共感者の所有地だったでしょう。

 一行が、自由にそこを用いていた様子が伺われます。

 ”こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。”(ヨハネ 18:1-2)

 ユダはこの場所を示すだけです。

 イエスへの口づけは、ヨハネ福音書にはありません(共観福音書 新共同訳では”接吻”)。

 大袈裟に”一隊の兵士”(600人くらい)が登場し、”松明やともし火”が象徴的に出てきます。

 ”それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。(ヨハネ 18:3-4)

 名を記してペテロとマルコスの一騎討ちが語られます。

 ”シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」”(ヨハネ 18:10-11)

 この世・人の力に対して、その存在を「わたしである(”エゴー・エイミー”)」と示し、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と勝利者の言葉が響きます。

 ヨハネのメッセージは

 ”このイエスを信じるか否か、それだけは鮮やかにせよ”

 と促しています。

 私たちの生き方のどん底に、この問いを関わらせてまいりましょう。

 (1996年3月3日 神戸教会週報 岩井健作)


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