イエスの死《ヨハネ 19:28-30》(1996 週報・説教補助)

1996.3.31、神戸教会
復活前第1主日・受難節第6主日
棕櫚の主日

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)

この日の説教、ヨハネ 19:28-37「イエスの死」岩井健作


 今日のテキスト「イエスの死」(ヨハネ 19:28-30)は、わずか3節であるが、整えられ、よく構成された、味わい深い文章である。

 ”この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。”(ヨハネ 19:28-30)


 共観福音書の受難物語とヨハネのそれとを比べてみると、かなり違ったところがある。

 例えば、マルコに依拠したマタイ・ルカ共に、「イエス十字架につけられる」という場面で、キレネ人シモンが田舎から出てきたら(マタイは”田舎”を削除)、イエスの十字架を無理に(ルカは”無理”を削除)担がせられた、と記す。

 ”そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。”(マルコ 15:21)

 共観福音書の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ 8:34 及び並行箇所)という言葉と関連させるならば、旅行者シモンが不意に余儀なくイエスの十字架を担がせられたという話は示唆に富む。

 ”それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”(マルコ 8:34)


 子供の頃、不本意に貧乏くじを引くような役割を負ってブツブツと不平を言うと、母親に「クレネのシモン!クレネのシモン!」となだめられたのを思い起こす。(”クレネ”は口語訳)

 共観福音書は「”エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ ”わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(詩編22編の冒頭の句)」という苦難と絶望に向かうイエスを描く。

 いわば歴史のイエスである。

 それゆえ、イエスはまた十字架の道行きで倒れる。

 ところが、ヨハネは注意深く、この話全体を削除し、「イエスは自ら十字架を負い」とだけ記す。

 ”イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。”(ヨハネ 19:17、新共同訳)

 そして、詩編22編の「エロイ……」を引用しないで、「わたしの衣服のことでくじを引いた」(詩編 22:19)「口は渇いて」(詩編 22:16)を引用する。

 ”口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。”(詩編 22:16)

 ”わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。”(詩編 22:19)


 ヨハネは、苦難そのものより、神の意志を完遂するイエスを語る。

 死は、その神の業の成就であると。

 マルコでは、イエスは没薬を混ぜたぶどう酒(麻酔の働きをする)を受けない(マルコ 15:23)。

 ”没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。”(マルコ 15:23-24)

 しかし、ヨハネでは「酸いぶどう酒」を受ける。

 ただし「海綿を葦の棒の先に付け」を「海綿をヒソプに付け」と書き直す。

 ”ヒソプ”は植物で浄めの供物の際に用いられた(出エジプト 12:22、詩編 51:7)。

 出エジプト記のエジプト脱出の時、子羊の屠りにヒソプが用いられた故事になぞらえ、「過越」の成就を暗示している。

「渇く(ヨハネ 19:28)」も詩編69編22節を示唆する。

 ”嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見いだせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。”(詩編 69:21-22)

「父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか(ヨハネ 18:11)」にあるように、「渇き」を表明しつつも、死を受容するイエスを示す。

 ”シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」”(ヨハネ 18:10-11)

 イエスは、死に向かって、主体的・能動的に赴く。

「成し遂げられた(ヨハネ 19:30)」は、完成・成就を意味する。

 極めてヨハネ的である。

 ”こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。”(ヨハネ 19:28-30)

「息 ”プニュウマ” を引き取る ”パラディドーミ”」

 ”パラディドーミ”は「手渡す、引き渡す、委ねる」との意。

 この語彙は深い意味を宿している。

(1996年3月31日 神戸教会週報 岩井健作)


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