1996.4.7、神戸教会
復活日・イースター礼拝週報
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)
イースター礼拝説教、詩編 96:1-3 「新しき歌を歌え」岩井健作
午後、納骨者記念式説教、ルカ 24:28-35 「心燃ゆる時」岩井健作
2ヶ月余り前だったと思う。
主日礼拝が終わり、会堂から週日の生活へと出で立つ方たちに、祝福を込めて挨拶をしていると、さりげなく
”僕の書いたものです”
と、小さなハトロン紙封筒を手渡された。
牧師室に戻って開けてみると、学術論文の抜粋が5冊、合わせるとざっと100ページ以上はある。
内容を理解できるか否かは別として、その人の生き様に触れるというのが、”牧師”の務めであるから、分かっても分からなくても、と思って、何週間も持ち歩いていたが、ある晩、発表の年代順に従って、一気に読んだ。
論文題名を列記してみる。
(1)「リヴァイヴァリズムと『自由之天地』創世 ー 高梁基督教会創立過程の研究」(「日本学報」12号、1993年3月、大阪大学)
よく耳にしていた岡山県・高梁(たかはし)教会(組合教会系)への大迫害は、《フロンティア=辺境》型リヴァイヴァル(熱狂的宗教運動)が地域社会に変革を起こしていく歴史的一段階であることを教えられた。
(2)「キリスト教と自由民権運動の連携・試論 ー 岡山と高梁を事例に」(「キリスト教社会問題研究」43号、1994年7月、同志社大学)
ネットワーク論(人々を価値やヴィジョンで結びつける精神的結合)を用いて、キリスト教と自由民権運動の重層的連携を探究している。
(3)「『文化交流史』の中の情報・地域・ネットワーク」(「立命館言語文化研究」第6巻3号、1994年12月、立命館大学)
ネットワークをキーワードとして、歴史に生きる人々の営為の中に「相互依存と共生」の希望を見出す方法を、もう一度、岡山県・高梁教会の実証研究へと注ぎ込もうとする序説をなす。
(4)「近代日本社会とリヴァイヴァリズム」(「キリスト教史学」49集)
”近代日本社会においてキリスト教は民衆に根をもたなかったのではない。少なくとも《辺境》型リヴァイヴァルは、その可能性をもっていたのではなかったか。そして、近代日本のキリスト教が選択した「文明開化」路線により、この国のキリスト教はその可能性に気づかず、それを育てる努力をせず「良い土地」であったかもしれない民衆に伸びかけた根を自ら折ってしまった。”(同36頁)
なるほど、と思った。
(5)「メディアとしての音楽幻燈隊と岡山孤児院」(「キリスト教社会問題研究」44号、1995年12月、同志社大学)
宮崎の石井十次資料館には”幻燈機”の現物があるという。ガスを光源とする方式だという。大切な資料だ。
執筆者I氏の信仰と学究の歩み、そして、その受肉としての教会生活に、神の導きと祝福を、心から祈る。
(1996年4月7日 神戸教会週報 岩井健作)
(サイト記)この日(イースター)、神戸教会に転入者がお一人。I氏のお名前が週報に紹介されている。信頼関係あっての文章。