1994.10.23、神戸教会週報、降誕前第9主日
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
(サイト記)翌24日(月)〜26日(水)に西中国教区教職研修会の講師として出張。週報の個人消息欄に記載。
(サイト記)2週間後の婦人会一泊研修会の案内が週報に掲載されている。
講師・野本益世さん(元神戸教会員、当時賀茂教会員)、テーマは「『姉妹』ー教会と奉仕」。
ヨブ記 5:8-27、説教「言葉の破れ」
ヨブ記の3〜5章を読み進むうちに、最近いただいたS牧師からの手紙を思い起こした。
S氏は東京の山谷・日雇い労働者の寄せ場で「開拓伝道」をしている。
と言っても、我々が「教会常識」で人を集め、建物を作っていくということを第一目的にしているわけではない。
そこを「現場」とする人々の「問題」を共有していくことを通して、苦悩の只中にある「神」を証ししているのだと思う。
ちょうど、私たちの教会が大阪の西成教会の金井愛明牧師から問いかけを受けて、「お米募金」を継続しているように、彼もまた一面社会の現状に疎い教会への発信基地たらんとしているのかも知れない。
S氏は、教会がどんなに炊き出しを行おうと、毛布を配ろうと、労働者は次々に倒れ、路上で死に直面している現実を変えることが出来ないことは百も承知している。
問題は、この社会を構成している人々の日常的意識が変化しない限り、事態は変わらないことを自覚している。
では、教会がその人々の日常的意識に関わって、何か言葉を語る、とはどういうことなのかを問うている。
”大多数の教会はまさにこの社会を構成する多数の日常性の中に建っています。……多くの教会員の社会生活における「常識」は教会生活を送る上でのそれと極端な差異はないはずです。そこで例えば山谷の日雇い労働者が直面させられている「問題」と我々の日常性とがどこで関係づけられるのか、問題解決のために我々のどのような日常性(常識)が変えられなければならないのか、ということが課題となります。”(S牧師からの手紙)
S氏の言う「日常性(常識)が変えられる」という課題が、私には、今日のヨブ記のテキスト4〜5章に重なり合って読める。
ヨブ記は3章で、自ら生存を願わないヨブの苦痛を告げている。
前回(存在の深み)は、ヨブがその苦悩を「うめきの言葉化」にまで持って出ているところに深い意味を読み取った。
「うめき」はロマ8章26節に呼応するものである。
”御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。”(ローマ人への手紙 8:26、口語訳)
しかし、4〜5章のテマン人エリパズの言葉はどうであろうか。老練であるゆえに、説くこと切なるものがある。古(いにしえ)からの「救い」の教義は全き装いで説かれている。エリパズが語る言葉の最後(5章最後の節)は次のように結ばれる。
”見よ、われわれの尋ねきわめた所はこのとおりだ。あなたはこれを聞いて、みずから知るがよい」。”(ヨブ記 5:27、口語訳)
だが、私たちが、この社会の常識を破れないように、この言葉も破れていない。
(1994年10月23日 神戸教会週報 岩井健作記)