1994.11.6、神戸教会週報、降誕前第7主日・聖徒の日
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
(サイト記)礼拝後、納骨堂にて納骨者記念式。
翌7日の婦人会一泊研修会の案内。
講師・野本益世さん(元神戸教会員、当時賀茂教会員)、テーマは「『姉妹』ー教会と奉仕」。
ルカによる福音書 23:39-43、説教「主ましませば」
”十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。”(ルカによる福音書 23:39-43、口語訳)
あだなる世のさかえを よろこび
ほこりておのが道を あゆみつ
むなしく過ぎにし日を
わが主よ、忘れたまえ
(讃美歌288番3節)
作者のヘンリー・ニューマンは、英国の聖公会の司祭を務めていたが、教理の解釈をめぐり対立、後に自分の信念に従い司祭を辞し、カトリックに転じ、やがては枢機卿に任じられた人である。
大学の学長なども務め、著作『大学の理念』は日本でも広く読まれている。
89歳で没した彼の人生は、「業績」という点から言えば、世の評価に不足はない。
にもかかわらず、彼の残した讃美歌の故に、より多くの人々の心に覚えられている。
彼にしてなお「むなしく過ぎにし日」への思いが、人生の晩年に心に迫ったに違いない。
まして自分の心に照らしてみて「さかえ」「ほこり」を宿した「過ぎにし日」を思う者は多い。
そして「わが主よ忘れたまえ」という一句に秘められた祈りが、強烈に、神への思慕と信頼を示している。
聖書では「忘れたまえ」という祈りと「思い出してください」という祈りが、表裏の意味を持っている。
例えば、ヨハネ黙示録16章19節では「神は大いなるバビロン(ローマ帝国の圧政に重ね)を思い起こし(”ミムネスコー”)、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた」とある。
”大いなる都は3つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。”(ヨハネの黙示録 16:19、口語訳)
思い起こすことは審きに繋がっている。
しかし、他方、ルカ23章42節は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください(”ミムネスコー”)」と「思い起こす」ことは罪の赦しに繋がっている。
””そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。(ルカによる福音書 23:42、口語訳)
”ミムネスコー”という語(覚える、心に留める)は、神との関係を示す大切な言葉だが、神と人との関係を審きと赦しの両面で捉えている。
罪については思い出さないでください、赦しと憐れみによっては、いつもその存在を思い出してください、という祈りが込められている。
「思い出してください」というのは、ユダヤ教でも祈りの定式(師士記 16:28、詩篇 89:51)となっている。
ルカ福音書が、イエスの十字架刑の場面という最も暗いところ、つまり人間の罪が剥き出しになっているところで、深い祈りを、この世の失敗者・犯罪人の一人の口から祈らせているところには、深い意味がある。
私たちは、故人を記念する時、単に思い起こす、というだけではなく、赦されて在る、ということに思いを馳せたい。
(1994年11月6日 聖徒の日礼拝 岩井健作記)