1994.11.13、神戸教会週報、降誕前第6主日・幼児祝福式
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
(サイト記)週報に婦人会一泊研修会(講師・野本益世さん)の報告。
翌日14日(月)〜17日(木)教団総会出席のため浜松出張。
詩篇 8:1-9(口語訳、新共同訳 詩編 8:1-10)、ヨブ記 7:17-18、説教「ただ愛の雰囲気のなかで」
詩篇8篇を読んでいてお気づきになることがありませんか。
この詩は、2節と10節(新共同訳、口語訳では1節と9節)に「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」という繰り返しの句があります。
”主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。”(詩編 8:2、8:10 新共同訳)
神を讃美する礼拝で、この部分を会衆が力強く合唱し、中の部分を祭司が朗唱したのでしょうか。
この詩には「創造」(関根正雄)という題が付けられているように、壮大な神の御業を讃えています。
と同時に「人間の尊厳」(勝村弘也)、「人の子の栄光」(浅野順一)という表題も付けられているように、無きに等しい人間が顧みられ、その人間に「よろずの物」「造られたものすべて(新共同訳)」を「治める」ようにされていることの驚きが歌われています。
その文脈で、8節の「羊、牛、野の獣、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの」が出てきます。
さて、この詩には、私たち、モンスーン地帯に住む人間の感覚からすると、生い茂る植物が出てこないのです。
おそらく詩人が「全地」という時、草も木も、その言葉の豊かさの中に含まれてしまっているのだ、と思います。
8節の動物たちがいるということの祝福の中に含まれてしまっているのでしょう。
それにしても、自然の出来事の一つ一つ、例えば月や星が、崇敬の対象であり、それを拝んだ世界の中で、造物主と儚い人間(ここで用いられている人間を表す語”エノーシュ”は、儚きもの、死すべきもの、を示す)との対比の鮮やかさは、詩人が育った荒涼として厳しい風土から来ているのではないか、との思いを強くします。
詩人の歌う人間関係も「刃向かう者」「報復する敵」という厳しい表現です。
陰影の強烈な神讃美、信仰が歌われています。
この詩の中心を私は4節(口語訳、新共同訳では5節)に見ます。
”人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。”(詩篇 8:4、口語訳)
”そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。”(詩編 8:5、新共同訳)
この句を、ヨブ記7章17〜18節では、神の目の前に厳しく問われる弱い人間という方向へ持っていきました。
”人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、これにみ心をとめ、朝ごとに、これを尋ね、絶え間なく、これを試みられるのか。”(ヨブ記 7:17-18、口語訳)
”人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。”(ヨブ記 7:17-18、新共同訳)
陰影の極限を感じます。
しかし、詩篇8篇は逆の方向へ持っていき、弱き者の象徴である「みどりごと、乳飲児の口によってほめたたえられる」神へと焦点を合わせます。
”主よ、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごの口によって、ほめたたえられています。”(詩篇 8:1-2、口語訳)
「ただ愛の雰囲気のなかでのみ、人間の顔は神によって創られたそのままの姿で……自己を保つことが出来るのである」(M.ピカート)
M.ピカートの言うように、幼な子の存在は、神の愛をほのぼのと示しています。
たとえヨブの状況に私たちが居たとしても、もう一方を重ね合わせることが出来るところに、聖書の豊かさがあります。
(1994年11月13日 神戸教会週報 岩井健作記)