毒麦の譬え(2007 聖書の集い)

2007.12.12 「福音書の中のイエスの譬え話」第7回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)

マタイ福音書 13章24節−30節

1.譬えの筋。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いた。……すぐ抜き取ろうとする僕(しもべ)に主人が

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」

 と、言ったというお話し。

2.この譬えはマタイ福音書だけにある。譬えがこの福音書に定着するには40−50年位の経過がある。初代教団の礼拝や信徒の育成でこのお話が用いられ「福音書」に定着した時には、教団の主張の意味が譬えに込められていた。これを研究し解きほぐして来たのが「聖書の歴史批判的研究」である。イエスの最初の話は、初代教会の生活の中で別な意味を担った。「毒麦の譬え」は、マタイ 13章36−43節の様な寓意的解釈で理解された。

3.初代教会は「世の終わり」を極く間近に考え、審判の時と捉えていた。そうして一つ一つの言葉に意味付けをして38節以下(刈り入れ=世の終わり、畑=世界、良い種=御国の子ら、毒麦=悪い子ら、敵=悪魔)の解釈をした。

4.イエスの譬えそのものは、農民の経験に訴えて、神の国(=支配)は収穫まで忍耐して待つことの中にあることを悟らせる。① 人は分離(毒麦と麦、悪と善)を成し遂げる権利を全く持っていない。② 神が分離の時を定められる。

5.農民の経験知は、植物が小さいうちは見分けがつかない。水の少ないところで、根を荒らしてしまってはならない。麦を育てるには、収穫までの時をじっと待つ長い目が必要である。イエスはこの知恵の内に「神の国」の真理を据える。善悪に関する究極的判断は人間の判断を越えている。それをすると、神を自分に引き寄せて自分を絶対化(神)の座におく事になる。自分を神に委ねて相対化の視座に置いた時に初めて神との関係が繋がる。

6.「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を上らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(マタイ 5:45)

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある……生まれる時、死ぬ時、植える時、植えた物を抜く時」(コヘレト 3:1-2)、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与える」(同3:10)等はこの譬えに通じる。

前後の集会

2007年
*12月9日 明治学院教会礼拝説教
 午後、明治学院教会主催 クリスマスオルガンコンサート メッセージ

*12月10日 沖縄を学ぶ会(鎌倉恩寵教会)
 夜、神奈川教区基地問題小委員会(高座渋谷教会)

*12月12日 湘南とつかYMCA「聖書の集い」講師(本テキスト配布)
 夜、「教師退任勧告問題」アッピール起草担当者会(紅葉坂教会)

*12月16日 明治学院教会礼拝説教
 夜、講演会「聖書における同性愛−聖書は同性愛についてどう言っているか」 
 T・ジェニングス(シカゴ神学校教授)於紅葉坂教会 
 主催・神奈川教区性差別問題特別委員会

*12月18日 ラテン・アメリカキリスト教ネット「佐々木治夫神父を囲む会」

*12月19日 「鎌倉平和都市宣言50年記念」準備会

*12月22日 川和保育園 年少組 クリスマス お話

*12月23日 明治学院教会クリスマス礼拝説教、愛餐会

(予告)植物が小さいうちは見分けがつかない。麦を育てるには長い目が必要であるとは農民の知恵であった。イエスはこの知恵の内に何を語ろうとしたのであろうか。「裁きは神に」と言ったのはパウロであった。現代のわたしたちの経験になぞらえてこの譬えに迫ってみたい。

マタイ福音書 13:24-30 「毒麦」のたとえ(新共同訳)

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉にいれなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」