2007.12.9、明治学院教会(96)待降節 ②
▶️ 午後、コンサート「クリスマスの温かみ」
(単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
マタイ 1:1-17
1.本の書き始めは大事です。
どんな「切り口」を持ってくるか。マタイは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ 1:1)という話を配置します。
私たちには読みづらい箇所です。しかし、ここは「マタイの神髄」でもあります。
2.結論から述べます。ここの重要点を私なりの信仰理解で、まず受け止めて、読み取りますと、焦点は二つに絞られます。
第一は「神が主役である」ということ。
第二は、その主役は「人間の歴史」という共演があって初めて、ドラマ(劇)が成り立っていることです。
主役と共演の相互関係が大事なのです。
3.第一に「神が主役である」ことを、マタイは「系図物語」の中でこう述べます。
”ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。”(マタイ 1:16、新共同訳)
《系図の断絶》
”母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。”(マタイ 1:18、新共同訳)
《神の歴史への介入》
”「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”(マタイ 1:23、新共同訳)
《マタイの神学》
系図の歴史は、最後のところで、イエスはヨセフの子ではなく「聖霊による」存在であると強調されています。
系図の内側の継承ではないのです。これはマタイの「信仰告白」であり「神学」です。
4.インマヌエルについて、かつて瀧澤克己さん(1919-1984, 九州大教授・哲学・キリスト教神学者)は、「神が我々と共に」であって、「我々が神と共に」ではない。
この関係は「逆転不可能であり……根本事実、根本関係だ」と言っています。
聖霊による懐胎ということは、自然科学的世界観を持っている近代人には理解不能ですが、神の出来事の表明と受け取る時、それは歴史の閉塞を開く力として働きます。
5.第二は、その「我々とは何か」です。
それは「旧約聖書」そのものを示す「系図」で表明されます。
アブラハム、ダビデを含めて「信と不信」の凄い歴史が続きます。その凄さが「救い」を具現しているのです。
ヨセフまでは「血の繋がり」を伝える「”エゲネーセン”:もうける、父である)」という言葉で繋げられています。それはある意味で歴史そのものと同時にその閉塞を示す言葉です。でもその閉塞の営みが意味あらしめられているところに、見えないところで歴史の救いは成就されています。
6.作家・坂田寛夫さんの作品『バルトと蕎麦の花』は、神の主役を論じる神学者・バルトに啓発される牧師ユズルを、信仰とは関係のない小作農で歌人の父親ハジメが最も支えるのです。
「擦り減りて清らになりし指先に、縄の乾きは編みつつ痛し」
▶️ 午後、クリスマス・オルガン・コンサート
「クリスマスの温かみ」
◀️ 2007年 礼拝説教