ダゴンが倒れる(2013 礼拝説教・敬老の日)

2013.9.15、 明治学院教会(320)聖霊降臨節 ⑱

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(単立明治学院教会牧師、健作さん80歳)

サムエル上 5:1-5、ルカ 12:15-21

1.サムエル記上5章-7章の1節までは、読むほどに奇妙な物語である。

 ペリシテ人はイスラエルが戦場に持ち出した「神の契約の箱」を戦利品とし、ダゴンの宮殿に運んだ。次の朝早く、ダゴンの神の像が倒れている。アシュドドの街・エクロンで疫病が起きる。

「町全体が死の恐怖に包まれ(5:11)」たという。ペリシテは相談し、賠償をつけて、イスラエルの町ベト・シュメシュに送り返す。後々エルサレムに巡礼に来た人々に物語は語り継がれる。主は「異邦の土地」でも主であり給うと。

2.時代が経って、申命記の歴史家たち(サムエル記の編集者たち)が、この物語の意味の再解釈を行った。

 主は異邦の地「バビロニア」でも働き給うという信仰、預言者エレミヤ の信仰と重ねて受け継がれた。

 神殿の神ではなく、異邦の囚われの地でも民と共なる神。自明の神ではなく、新しく出会う神体験が、歴史の物語に重ね合わされた。

 エレミヤはユダの国の敗北と捕囚を、神の裁きと新しい契約(救い)として捉えた(31:33)。こうして「神の契約の箱」は敵側にあっても、力を発揮するという物語として読み直しがなされた。

3.物量の神の象徴がダゴン。そのダゴンが倒れるというテーマ。

 ダゴンは「穀物」あるいは「収穫」という意味。カナンの農耕神バアルの父。ペリシテ人たちは、元々海洋民族で商業主義。カナンに侵入してカナンの宗教に同化された。

 ダゴンの神は富の所有を是とする神。人間の自己利益を拡大再生産する神。このような宗教は、社会全体が病む時、お互いに助け合うという生き方を支える力にはならない。

 困難が来たとき、恐怖に陥る。ダゴンを祀る社会の狼狽は後々の語り草になった。

 それに対して「神の契約の箱」の意味が再認識される。

 モーセがシナイ山で神から与えられた律法を刻んだ「石の板」が入れてある箱(申命記10:1以下)。

 主はわたしに言われた。「あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。わたしはあなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。」(申命記 10:1-2、新共同訳)

 契約の内容は、出エジプト記の20章、いわゆる「十戒」(讃美歌21 93番3参照)。

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト 20:3、新共同訳)。

 現代の言葉で言えば、己を神としないこと。それは同時に、お金を至上価値(神)としないこと。自己完結性を砕かれるということ。もっと日常倫理的な面で翻訳すれば、十戒の後半、隣人と共に生きること。神を自己相対化の視座に据えること。自分本位を見直すこと。

4.敵軍の中にある神。それは受難の姿。

 受難において神の姿を見る、とは新約聖書のイエスの十字架の姿を連想させる。

 私たちの歴史には「ダゴンが倒れる」奇妙な物語はいっぱいある。

 しかし、そこにこそ神の働きを覚える。それを大事にしたい。


 1995年、阪神淡路大震災での神戸の街での体験が忘れられない。兵庫教区は「緊急生活貸付金」の被災者支援活動を行った(小田実ら市民議員立法の「被災者生活再建支援法」が結実した系譜にある市民活動)。

「ダゴンの街(と言われるほどの)・株式会社 神戸市」で、被支援者の一人の街のおばさんから、人間の息吹を感じた。

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