2013.9.4「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”
第64回「新約聖書 ヨハネ第一の手紙」①
ヨハネ第一の手紙 1章1節-4節
ヨハネの手紙一 1:1-4 ”命の言”、新共同訳聖書 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。ーこの命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。ーわたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
阪神大震災の時、ある小学校の校長先生が「地震では“知識”は役立たなかったが“知恵”は役だった」といわれた言葉が心に残っています。
知識とは“頭”で覚えているものです。“知恵”は体に刻んでいるものです。
避難所に避難はしたが学校のトイレが全く使えない。知識優先の人は、行政に交渉しようと考えた、知恵優先の人は、とにかく校庭に穴を掘って囲いを作る、といった対応をした。聖書の「ヨハネ第一の手紙」(口語聖書の表題)とは何を主張しているのか、一口で言えといえば、信仰の世界でも、知識優先はダメだぞ、体験(経験)が大事だ、と強調している文書です、といっておきたい。
多少の辞書的解題をしておきます。新約聖書27文書の後半部パウロ(に帰せられた)13文書(真筆は7文書)の後半におかれている7文書を「公同書簡」と呼びます。ヤコブの手紙、ペトロの手紙一・二、ヨハネの手紙一・二・三、ユダの手紙、の総称です。
初期教会の礼拝集会で公に読まれ、1世紀から2世紀前半の初期の教会事情を示している。ヨハネの手紙は「ヨハネ福音書」を生み出した信仰共同体の系譜にある作品で「ヨハネ神学」といわれる固有な思想を継承しているが、「ヨハネ福音書」が論じている論敵は「世ないし世を代表するユダヤ人」であり「非キリスト者」であるが、ヨハネの第一の手紙の論敵「偽教師」はキリス者グループの中にいる、キリスト者の交わりの枠のなかで「自分こそ本当のキリスト者である」と言い放つ者である。
著者は、生きた教会的伝統のなかでヨハネ福音書の思想を用い、さらに初代教会の幅ひろい神学を援用する。著者はヨハネ・グループの信仰の伝統を継承する者。「第一」は「手紙」の表題ではあるが、差出人・受取人、挨拶はない。思想は、当時小アジアを中心に浸透していた「異端グノーシス」の排撃を目的としている。彼らを「反キリスト」「偽り者」(2:18、2:22)と呼び、「イエスのキリストであることを否定するもの(2:22)」「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない霊(4:2)」と言っている。いわゆる「仮現説」と同じ思想が論敵とされた。
ヨハネ第一の手紙を、異端に対して、正統的信仰箇条(① 受肉、② 贖罪の死、③ キリストの神性、などのキリスト論根本命題)の主張をしている書物として評価して読む読み方は伝統的にある。しかし、正統的信仰そのものが、時代の産物であり、それが歴史の状況を捨象して固定化される時には、異端といわれる「グノーシス主義」の固定化と同じ次元の過ちを犯すのではないか、と考えると「教義理解のぶつかりの書物」として読むのではなくて、思考の様式の在り方の相違が問題になっているという点で、この書物を読むのでなければ、現代においてこの書物を読む、つまり聖書を読む意味はないのではないか。私は、後者の読み方をする。
さて、今日の箇所、ヨハネの手紙一 1:1-4は、著者が「いのち」の啓示の目撃者として証言するという重厚な書きだしである。ここは「命の言」についての論述ではない。知識として「命の言」を教えてはいない。「命の言」を証しして「伝える」ことが中心課題になっている。結論的にはそのことが「喜びが満ちあふれるようになるためです」(1:4)と、自分の生活と結び付いた事柄になっている。
私は、神学校に入って初めて「新約聖書ギリシャ語」を学び、最初に「講読」をしたのがこの手紙だった。「わたしたちが聞いたもの、目でみたもの」の動詞が現在完了形であることを印象深く覚えている。この形は「現時点を基準として動作の完了・経験・継続などを表す」(広辞苑)。聖書が証しし告げている使信(メッセージ)は「現在完了」で示される。そういえば我々人間にかかわる「真理」はすべて現在完了形において表現され意味を持つのではないか。知識ではなく、経験なのである。
聖書や、キリスト教は、断片でよいから、自分の経験となっていることを大切にしたい。
用語解説:仮現説・ドケティズム:イエスの地上の生活・降誕(受肉)・生涯・受難・十字架などは神的本質からみれば「仮(ドケオー)」に過ぎない、との説。グノーシス(覚知)主義の思想。ナグ・ハマディ文書に多くの事例がある。
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