1976年12月12日 待降節第三主日 岩国教会週報
「先週(待降節第二)説教より」ロマ15:4-13
(岩国教会牧師12年、健作さん43歳)
キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕(しもべ)となられた。(ロマ15:8)
『割礼のある者』。割礼は本来、神とイスラエルとの契約の徴(しるし)であったのに、それはいつの間にか、無割礼の者(異邦人・イスラエル人以外)に対して、ユダヤ民族の誇りを示す差別用語の響きを負っていた。こうした民族間の溝は、イスラエル人がその一番大事なものである割礼を放棄する(異邦人に強制しない)ことによって、埋められていった。それは観念的克服ではなく、一人の人(イエス)がトコトンその問題を負われたことによって、道が拓かれたのである。
『なられた』(完了形)。イエスが十字架の死に至るまで、取り組まれたという「徹底性」を示している。ローマ人への手紙14〜15章は、ローマ教会における食事の問題 ー 肉を食べるか、菜食を守るか ー という文脈で、互いに裁き合うのでなく、交わりの回復を目指すことを説いている箇所である。その際、ユダヤ人問題に対して示されたイエスの徹底した姿勢という事実が、当事者たち双方を支える力になっている。
『僕(しもべ)』(”ディアコノス” διάκονος)。これは通常、「仕える者、奉仕者、執事」と訳される。「義務・役目・奉仕」といった広がりを持つ語である。「義務」は受動面を、「奉仕」は積極面を、そして「役目」は務めの客観性を示す。例えば、母が子を愛するという場合、愛が感情だけでなく「務め」として担われている面が前面に出る時、子の側にはかえって緩(ゆる)めや救いが感じられることがあろう。
『神の真実』が「務め」として示されているというキリスト理解を、『僕(しもべ)』(”ディアコノス” διάκονος)という語彙の中に読むとき、私たちにもまた、ほのぼのとした安らぎにも似た思いが許される。
(1976年12月5日 待降節第二主日 岩井健作)
(報告欄より)
共同の祈り「クリスマスに支援を求めている諸施設、学校、運動のために」
礼拝後、壮年会、讃美歌練習、CSバザー感謝会、老人ホーム訪問、夕礼拝。
亀の里委員会 13日(月)
牧師在宅日 14日(火)
祈祷会・聖書研究 15日(水)
幼稚園年中・年長クリスマス会 16日(木)
街頭募金 18日(土)亀の里アパートのため
次週19日(日)クリスマス礼拝、午餐会、駅前で街頭募金(清鈴園のため)、夕礼拝。


