上よりの祝福《ヨハネ 2:1-11 カナでの婚礼》(1995 週報・結婚・Kobe Church Familyの会・平和聖日・イエスの母・震災から半年)

1995.8.6、神戸教会週報
聖霊降臨節第10主日、平和聖日

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)

(サイト記)KCF(Kobe Church Family)の会とは、神戸教会で結婚式(10年以内)を挙げた方々を対象に、礼拝後、食事と交わりを共にする会、毎年開催。翌週の週報によれば39名(うち子ども10名)の参加(翌週の報告は個人名満載なので割愛)。この年は平和聖日と重なり、説教も「カナでの婚礼」がテキストになっている。

 この説教の後、翌週13日は岡山教会での説教(12日、東中国教区に出張)、15〜28日まで夏季休暇(震災後はじめての休養)。神戸教会での13日礼拝では藤村洋さんが証「私にとって教会とは何か」を担当。健作さんが次に神戸教会で説教を担当するのは9月3日「故郷の信心」となる。


ヨハネによる福音書 2:1-11、説教「上よりの祝福」

 ヨハネ2章1〜11節の「カナでの婚礼」のお話は、極めて象徴性の高い物語である。

 元来ヨハネ福音書はそのような物語である。

「風」の話をしているのだと思うと、それはいつの間にか「風=神の霊」であったりする(3章)。

「水」の話をしているのだと思うと、それも「水=永遠の生命」であったりする(4章)。

「ぶどうの木、ぶどう酒」も神の愛の象徴である(15章)。

 この象徴をめぐって、地上のことと天上のこと、意味や徴(しるし)の世界と現実の世界のことが、すれ違ったり、交錯したりする。

 そのチグハグなやりとりがヨハネ福音書の面白さであり、また難しさでもある。


 かつて私は、U君とKさんの結婚式の説教テキストにこの箇所を選んだことがある。

 そのおり、3節の「ぶどう酒がなくなりました」という言葉に目を留めた。

”三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があってイエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。”(ヨハネによる福音書 2:1-3、新共同訳)


 ぶどう酒は、ヨハネの象徴性から言えば、神の愛の象徴であり、婚礼そのものが祝福されていることを意味する。

「私はあなたと結婚してよかった」という思いを、結婚に当たっては誰しもが持つ。

 知人の難波紘一さんと幸矢さんもそうだった。

 しかし、紘一さんに進行性筋萎縮症が発病してからは、その言葉が失せた。

 長い精神的トンネルをかいくぐって、信仰の原点に戻って、「死に至る病」の中で再び二人が生き始めたとき、幸矢さんは「私はあなたと結婚してよかった」と、あの懐かしい言葉を再び語ったという。

 この一連の物語は、難波紘一さんの「妻をたたえる詩」に歌われている。

 紘一さんは、天に召されて、今はもういない。

 彼と最後に会った時、彼は私に「この詩のことをこれから結婚する人に話して欲しい」と言った。

 以来、私はそれを守っている。


 イエスはガリラヤのカナで婚礼を祝福された。

 この物語に秘められた二重の祝福を読み取りたい。

 最初の祝福は、イエスが婚礼の席にいた、ということであろう。

 愛があるから結婚する。

 このことは美しい。

 幾多の文学のテーマでもある。

 しかし、その祝福の象徴である「ぶどう酒がなくなったので」ということも結婚の現実である。

 自分の蓄えとしてのぶどう酒がなくなるとは、人間の愛の尽きる姿を象徴している。

 多くの結婚が行き詰まるのも現実である。

 無力な唯の人間に戻ってしまう時、ぶどう酒ではなく、水に過ぎない我が身の自覚を持った時、なお「結婚・家庭」に祝福を与え給う神の「奇跡」がこの物語の主眼である。

 唯の水を宴席に運ぶ《召し使い》の姿に「結婚・家庭への祝福」の招きを覚えたい。


”しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。”(ヨハネ 2:5-8、新共同訳)

(1995年8月6日 神戸教会週報 岩井健作)


▶️ 凍てついた時間と溶ける時間
− 藤村透さんへの想い出(2004 出会い)

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