地震の神戸から − 私にとっての「戦後50年」(1995 通信・震災から7ヶ月)

1995年8月発行
「靖国・天皇制問題情報センター通信 178号」所収

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)


 神戸市は地震で都市機能の中枢が破壊され、この50年間積み上げられてきた戦後「復興」による近代化の脆弱さを露わにしました。

 さらに悪いことには、その脆弱さを生み出した今までの都市構築理論を反省することなく、その延長線上で震災「復興」に、臆面もなく邁進しているところがあります。

 被害の大きかった地区について神戸市が早々と描いた再開発案に対して、地区住民が異議申し立てをしたにも関わらず、無視して審議会も非公開で原案決定という強行ぶりでした。

 住民の声を「我々は二度つぶされた。一度目は地震に、二度目は神戸市に」と新聞が伝えています。

 このような中で「難民・棄民」の立場から激しく行政のあり方に反省を求める者たち、行政を是とする者、その白黒の間で「曖昧な日本人」として灰色の部分を構成する者とが混在しています。


 さて「戦後50年」を考える場合に、この白黒とその間の灰色という構図はそのままあてはまらないでしょうか。

 一方の極は、言うまでもなく戦時中の天皇絶対制国家を変容させたとはいえ、精神構造としての天皇制の温存に依拠し、経済資本の力を軸として管理社会を包み込んできた「国家」の体制でありましょう。

 他方の極は、そのような国家体制の許で管理社会の底辺に位置付けられ、差別・抑圧されてきた民衆でありましょう。

 その間には上の極と下の極の力学の間で、灰色の度合いをそれぞれに生きている「国民」がいます。

「国民」とは少し言い過ぎで《人民・大衆・市民・住民・無党派層》を演じている人々であります。

 一方の極は、徹底して「孤」であり続けるという、凄まじいまでの対極の主体であります。

 もし共同性という視点から言うならば「逆説の共同性」としか言いようのないものであります。

 戦中・戦後、社会的な構造からすれば、まさしく「切り捨て・排除・差別・抑圧・無視」というところに置かざるを得ないところに生きながら、そこに存在し続け、問いを発するところで、なお温かみを保っている、強固な「個性」が、夜空の星の輝きのようにあります。

 もう25年も前、米軍岩国基地の兵士たちがベトナム戦争に反対し、あるいは軍隊に抗して活動していた時、一人の黒人兵士のつぶやきを忘れることができません。

 兵士たちの大部分は戦争が終われば帰っていくアメリカ社会に場をもっているのに「俺には帰る場がない」と言っていたことです。

 それ程に彼は孤独でありながら、なお日常の笑みをもって共生を生きていました。


「私にとっての戦後50年」と言う場合、自分の自覚としては、二つの対極の間の灰色の部分をある時は濃く、ある時は薄く生きてきた、という思いです。

 小学6年生で東京から新潟の山奥の寺に学童集団疎開をしていた8月、広島に新型爆弾が落とされ、やがて「終戦」を聞きました。

「よかった」と言う安堵を今も思い起こします。

 軍国少年に成り切れなかった感性は、今思うと家庭や日曜学校の温かみの中で養われたものだったと感じています。戦後、農村で自給開拓伝道を始めた親に従って、農作業を手伝って、経済二重構造の中での農業の悲哀を知りました。

 破防法反対闘争、安保闘争、原水爆禁止運動、靖国闘争、米軍基地撤去運動、ベトナム反戦運動、自衛官合祀拒否訴訟支援運動、その他もろもろ。

 闘争や運動と名付けられた流れの中に心情的に身を置きながら、そのしんがりの部分をウロウロしていた気がします。

「教会」に身を置いていたせいもあります。

 足許を、と「戦責告白」「合同の捉え直し」「聖書の読み方」など、キリスト者としてのあり方を自らの内に向かって批判的に捉える作業へと多少心を傾けているところへの「地震」。

 再度、あの一方の極である「孤」のあり様の激しさからの問いに直面しているのが、神戸で迎える戦後50年です。

 私にとって戦後50年は特別な年ではありません。

 戦後49年の次の年であり、51年の前の年です。

 灰色の渦の中にありながら、どれほど、一方の対極の声に心を寄せていくか。

 それは同時に、どれほど「ナザレのイエスに関わるか」ということでもあり、「神の実存・神の恵みのうちを生きるか」ということでもあります。