基地がある国での生きづらさ − 沖縄の苦悩につながろう(2010 沖縄・もとすす)

2010.7.29 執筆、発表誌不明

(明治学院教会牧師、76歳)

 私は1965年から1978年まで岩国教会の牧師を務めた。そこで米軍基地と出会い、強烈な衝撃を受けた。基地の存在が日常感覚になっている今を顧み、あの違和感の持続が、沖縄の苦悩に繋がる回路だと改めて感じている。

 あの時、日本は、憲法体制を凌駕する安保体制の国である事を肌で感じた。憲法体制が人間本来の在り方で「キリスト教信仰からは軍事力を根底とする生き方は出てこない」という基本を弁え、基地の街で忍耐して対話することを覚えた。岩国市はごみ処理場や小学校の建設を防衛庁の予算に依存していた。本来の地方自治はなかった。米兵による基地の犯罪は日常化していた。この経験は後、沖縄の問題の凄さの認識の手掛かりになった。

 当時左翼による「基地撤去を求める」運動はあった。「キリスト者平和の会」もその一翼であった。「Yankee Go Home」を叫んだ。しかし、ベトナム戦争の最中、基地の兵士が「反戦行動」を起こした。それに呼応する若者の運動が現れ、運動のスタイルが変わった。「GI Join Us!」と呼び掛けがなされた。当時は米国は徴兵制度だった。海兵隊員の中には「兵士である前に人間である」という感覚を失っていない若者がいた。今は違う。米国に徴兵制はない。貧困の若者は志願兵として軍隊に来ざるを得ない。彼らは「人間である前に兵士であれ」と徹底的に「殺す」ことの訓練を受ける。現在の沖縄の海兵隊員の姿である。岩国では一人一人が自分で考える「市民・住民」があれ以来育った。今回の「艦載機移駐阻止」の住民行動、基地拡張への4つの差止め訴訟などその延長で起こされている。

 私は、その頃、はじめて沖縄の教会の友人を訪ねた。日本の米軍施設の75%が沖縄に集中していることを実感した。友人の牧師たちは、基地内の教会の援助で米国留学をした者たちだった。だが、帰国した彼らは勇気をもって、基地の存在に「否」を発言し、行動をした。どれ程苦悩が大きかったかを察した。基地司令官就任式の祈りを託された平良修牧師は「この就任式が最後でありますように」と祈った。その気骨が内外を驚かせた。沖縄の教会の宣教姿勢が民衆の基地の苦悩を共にする方向へと変わった。が、本土の教会はそれを理解しなかった。それは本土と沖縄の関係史における、琉球処分・沖縄戦・米国統治・基地恒久化・密約問題・経済格差などの沖縄側の実情を余りにも知らなさ過ぎた現実であった。その無理解が沖縄差別に繋がり、沖縄の苦悩を倍増させているのは本土の責任であるとの自覚がなされていない。

 今年4月25日、沖縄では「(普天間閉鎖、国外・県外移設を求める)県民大会」に9万人が結集した。島ぐるみ闘争である。東京でこの規模の集会がなされるなら90万人集会が行われてもよいはずである。その日の東京の連帯集会は千人規模であった。参加していて、その落差に愕然とした。

 6月3日、中野で「許さない!日米合意」の集会は、主催が「沖縄意見広告運動事務局」という小さな運動体であったにしろ、あの大東京で、400名余りの集会であった。沖縄からは上原成信(沖縄・一坪反戦地主)、山内徳信(参議院議員)、安次富浩(沖縄・ヘリ基地反対協議会共同代表)、高里鈴代(沖縄・行動する女たちの会)、徳之島からは、田川忠良(天城町選挙管理委員)、久田高志(元城町住民)の諸氏が緊急報告に来援し、渾身の訴えをした。私はその来援の「優しさ」に心が震えた。

 かつて石垣島で「人は海から来る」という看板に出会った。日本の近代の「海外侵略」とは別な思想を感じた。交易が生む多様な文化の交錯である。沖縄から学び、沖縄との関係が生きる時、日本のアイデンティティーがあるのではないかと思った。辺野古基地建設への「怒」「怒」「怒」のスローガンが幾分か我々にも向けられていることに敏感であってもよい。

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