2010.8.1、市川三本松教会(千葉県市川市)
「平和聖日」礼拝説教
(明治学院教会牧師、健作さん77歳)
ミカ書 4:1-3
”主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。”
(ミカ書 4:3、新共同訳)
紀元前8世紀の後半、南王国ユダは、悪名高き王たちヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代。
首都エルサレムでは預言者イザヤが、南西に40キロ程の農村モレシェトでは預言者ミカ(活動 BC725-700)が共に活動をします。
大国アッシリアの力に追従して保身につとめる為政者の政治と、目に余る富める上流階級の不正への批判です。
BC701年、アッシリアのセナケリブの軍隊がパレスチナ南部地方を蹂躙した時、ミカの村は侵入軍に焼き払われ、戦争の犠牲になりました。
引用の「剣を打ち直して鋤となす」はイザヤ書(2:4)とミカ書(4:3)の両方にあります。
”主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。”
(イザヤ書 2:4、新共同訳)
これは両者より古い伝承に属するもので、民衆の経験の中の言葉だといわれます。
実際、太平洋戦争後、鉄兜で鍋を作って闇市で売ったという類いの民衆の知恵の話は沢山あります。
イザヤはこの諺に国家政策を読みました。
ミカは農民で、戦場の経験者ですから、生活の知恵からこの言葉を見ます。
武器を生活用品に変える、民衆の逞しさの中に、神の働きを見たのです。
「剣の放棄」は、武器・権力支配・テロリズムの武闘・抑止力など「力の放棄」です。
「憲法は鋤」を、安保は剣を象徴しているように思えてなりません。
日本国憲法の前文は、剣から鋤への方向を明確に述べています(「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」)。
そして9条「戦争の放棄」。
聖書の告げる「剣を打ち直して鋤とする」という信仰の根本は、新約聖書では、フィリピ2章6節の「キリスト論」によく表現されています。
”キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分となり”(フィリピの信徒への手紙 2:6、新共同訳)
神の自己完結性ではなく、自己完結を破ってイエスの僕の姿、十字架の死の極みで、他者を愛するという在り方で、「剣」が象徴する在り方を破ったのです。
剣と鋤ではイメージが全く違います。
剣は、直接性・即効性・見える・切る・倒す・脅す・殺す・滅ぼす・生から死へ。
鋤は、間接性・遅効 性・見えない・繋ぐ、起こす・慰める・活かす・育てる・死から生へ、というイメージを与えます。
私たちは(聖霊の働き、他者との関わりにたえず自分を委ね)、剣から鋤への自己変革を成し遂げて行きたい。
イエスの言葉を想起したい。
”剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる”(マタイ26:52)
”鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みるものは、神の国にふさわしくない”(ルカ 9:62)
レオ・レオニの絵本『フレデリック』には、物や力により頼む4匹の野鼠(剣の思想)と魂の豊かさを耕すフレデリック(鋤の思想)とのやり取りが描かれている。
「鋤(すき)に手をかけて」生きてゆきたい。
(参照:『フレデリックーちょっとかわったのねずみのはなし』レオ・レオニ、翻訳・谷川俊太郎、好学社 1969)