このページテキストは「説教テキスト」からの一部抜粋です。
関連「かくれた神 浅野順一」
マルティン・ブーバー 1878年2月8日 – 1965年6月13日
I and Thou (1923) 『我と汝・対話』植田重雄訳 岩波文庫 1979
説教:1995年3月5日 神戸教会(震災から47日、受難節第1主日)
「神は私の歩む道を知る(1996年版『地の基震い動く時』岩井健作著)」より
ヨブ記には、このように、神の見えないところが、何箇所かあります。例えば、30章20節「わたしがあなたに向かって呼ばわっても、あなたは答えられない。わたしが立っていても、あなたは顧みられない」、9章11節「見よ、彼がわたしの傍を通られても、わたしは彼を見ない」とあります。
こういうヨブ記の一面、つまり神をたずねても見出せない。そのことを「神の蝕(しょく)」と言ったのは、マルティン・ブーバーというユダヤ教の哲学者です。「蝕」は日蝕とか月蝕の蝕で、欠けていること、神が隠されてしまっていることです。ブーバーは、こういう体験は決してマイナスではなくて、むしろ、たいへん大事ということを言っています。
「神へのおそれを前もって経験せずにおいて、直ちに愛から出発する者は、実は、自分の手で作り上げた或る偶像を愛しているのである。だからこの場合に、それを愛することはいとも易いことであるが、しかし、彼は真の神を愛しているのではない……」
説教:1995年4月2日 神戸教会(震災から75日、復活前第2・受難節第4)
「わたしが大地を据えたとき」(岩井健作著『地の基震い動く時』1996年版)より抜粋
経済的に豊かで、信仰の篤いヨブという人物が登場します。彼は、ある日突然、財産を失い、家族と死別し、さらに病気にかかります。想像を絶するいわれなき苦難に出会います。しかし、ヨブは「われわれは、神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と、神への信仰を失いません。しかし、こういう信仰のあり方は、当時の一般的な信仰の考え方とは相いれませんでした。人生は「良いことをすれば良い報いがあり、罪を犯せば災いがある」と考えられていました。因果応報の教えです。そうして、この因果応報の秩序は、人々には壊れては具合の悪いものでした。そこで3章から長い長い、ヨブと三人の友人たちとの問答が始まります。「どこかであなたは悪を犯しているのだ、悔い改めよ」という論陣を友人たちは張ります。これに対し、「私の苦しんでいるのは、正しい者が何故苦しむのか、ということなのだ」とヨブは主張します。何回にもわたる問答の末、答えを得られないまま、ヨブはもはや友人たちを相手にせず、直接神に向かって論争を挑み、答えを要求します。そして、神が私を苦しめている、しかし、その答えも神のみが持っておられるという信念のもとに、神に迫ります。「答えない神」「隠されてしまった神」との戦いが続きます。
ヨブ記は、旧約聖書の39巻の書物の中では、比較的後期の作品で、それ以前に形作られていた、律法の書や預言の書とは、異なったテーマを扱っています。律法や預言書では、「神の意志」「神の声」がはっきりしていました。神に従うのか、神の前に悔い改めるのか、が根本的問題でした。神に対しては「決断」とか「行動」が問われていました。ところが、ヨブ記では、そうではないのです。「隠されてしまった神」、マルティン・ブーバーが「神の蝕」(つまり欠けていること)と表現したような、神、呼べど叫べど応えない神が問題になっています。そのような神に対して、なお「悟る」ことが求められています。その人間の知恵、英知が問題になっています。