かくれた神 浅野順一(1995 説教・震災直後)

このページテキストは「説教テキスト」からの一部抜粋です。
関連「かくれた神 マルティン・ブーバー



説教:1995年3月12日 神戸教会(震災から54日、復活前第4・受難節第2)
神の息吹」より

 ヨブ記の中心をどこにみるか、について、ヨブ記研究の先駆者である浅野順一氏は、ヨブ記13章15節〜16節に中心をみる、と言っています。

「見よ、彼(神)は、わたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなお、わたしはわたしの道を 彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救いとなる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ」(口語訳)

 先週、「隠された神」ということを23章で申しました。隠れた神に追いすがりつつ生きる、これは浅野先生らしい、ヨブ記の捉え方です。実存的な生き方のプロセスそのものが、信仰者の姿なのだ、そういう生き方を可能ならしめる、神の強烈さに救いはゆだねられている、ということです。
 私たちの信仰の先輩が、人生というものを達観するのではなく、一日一日、まだ見ぬものを目指して、実存的に生ききっているということは、大きな慰めです。教会というものは、そういう先輩たちの信仰に引っ張られて存在していると言っても良いかと存じます。
 そういう点から読みますと、3節はなかなか味わいのある言葉です。

 「わたしの息がわたしのうちにあり 神の息がわたしの鼻にある間は」(口語訳)

 新共同訳はもう少しはっきりしています。

 「神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っている限り」

「…間は」とか「残っている限りは」と言われているのは条件文です。ここでも、ヨブは、自分を平安のうちに抱え込まない、魂を苦しめるその神の息吹によって、自分が存在していることに、自分の実存の根拠を置いています。



説教:1995年3月19日 神戸教会(震災から61日、復活前第3・受難節第3)
神を待つ」より抜粋

 ここまでには、何故、ヨブが苦しむのか、の答えは出ていません。実は、その答えのない所で、ヨブが、どこまでも、神に迫るという生き方、すなわちヨブの実存が、このヨブ記のテーマなのだという見方をする人もあります。例えば、それは浅野順一氏だということも、何回も申し上げてきました。



説教:1995年4月2日 神戸教会(震災から75日、復活前第1・受難節第5)
わたしが大地を据えたとき」より抜粋

 友人たちに絶望したヨブは、神ご自身がヨブを説得することを求めます。ヨブは、正しい者が苦難を受けるという不当さを神に抗議し、神の答えを求めます。見えない神を問い詰めます。神を問い詰める実存的生き様の見事なのがヨブ記です。これは大切な側面です。このような真摯な生き方を失うならば、人間はいつしか「神」を自明なものとして、自分の内うちに抱き込んでしまいます。神についての教理の危険、「神学」の危険というものは、いつもそこにあります。
 そういう意味では、繰り返し申し上げましたが、ヨブ記の中心を、13章15節〜16節に見る、旧約学者浅野順一氏の指摘は、正しいのです。そこを読んでみます。

 「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視するものなら、御前に出るはずはないではないか。」



神戸で出合った聖書の言葉」より抜粋

 旧約聖書のヨブ記は、財産の喪失、家族の災害死、重い病といった激しい苦難に出合った主人公ヨブが、不条理の苦難の意味を神に問い続けた戯曲。その神は自明な神ではなく、隠された神。友人は苦難の中で祈れば必ず神に聞かれるという。あたかもヨブの信仰が足りないかの如くに。楽天的な宗教だ。しかし、ヨブにとっては自明の神はすでに失われていた。因果応報の功利論の宗教が彼に「救い」をもたらしはしなかった。彼は「隠された神になお追いすがりつつ生きる」(浅野順一)。



ヨブ記を読む

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