神の息吹 95.3.12

説教 於神戸教会 1995年3月12日
震災から54日目、受難節第2主日

(サイト記)本テキストは1996年版にのみ収められた説教です。


ヨブ記 27:1-10

 今年は、教会暦によれば、4月9日に「棕櫚の聖日」、つまり、イエスが十字架につけられ、当時のローマとユダヤの権力者によって殺されていく、受難の一連の出来事が、エルサレム入城によって始まる日曜日を迎えます。その週は受難週として、洗足の木曜日、最後の晩餐、ゲッセマネの祈りを覚え、受苦日の金曜日を迎え、4月16日に復活日(イースター)を迎えます。
 今は、レント(受難節)を過ごしています。阪神大震災の受難とを重ね合わせ、それぞれが負わねばならない「自分の十字架」を思い、この年は、受難節が一層身に沁みる思いをなさっていると存じます。

 受難節の課題は、「自分の十字架を負いて我に従え」と言われた、イエスへの思いを新たにすることです。私たちが手にしている聖書の福音書は、イエスに従いきれない弟子たちの姿を知っています。そのような挫折する弟子たちをも含めて、福音書が書かれた時代の教会が、なお繰り返し、繰り返し、神の招きと「ゆるし」の福音を聞き続けたことを思うと、現代に生きる私たちも、一層、神の招きと、その「ゆるし」を深く聞き取ってまいりたいと存じます。

 震災で少し途切れてしまいましたが、震災と受難節への思いを込め、そして、昨年秋よりヨブ記をテキストに学んでいる続きとして、今朝もヨブ記を学びます。初めての方もおられますので、繰り返しになりますが、ヨブ記とは何か、に触れさせていただきます。

 ヨブ記は、旧約聖書の中の一つの書物です。ヨブという人物が、人生最大級の苦難に出会ったが、なお、苦難の中で、神への信仰を全うした、という古い伝承物語を核として作られた、かなり長編の戯曲です。そこは、信仰とか、宗教を、利害や因果応報の面でしか考えなかった当時の通俗的信仰や神学への批判や、苦難をどう捉えるか、という問題や、人生の知恵とか神の知恵とは何か、等の問題など、深い宗教的思索が述べられている文学作品です。おそらくヨブ記の研究だけをライフワークとしても、その思想の深さを極めることはなかなかできないような内容をもっています。
 三人のヨブの友人とヨブとの宗教的対論、あるいは法廷弁論という形で、この戯曲は進められていきますが、今朝お読みいただいた27章は、友人三人のヨブとの対論では9回目になり、論争の終わりに近い部分です。最後にヨブが最終弁論をするのは29〜31章、そして、結論部分となる神の弁論とヨブの答えが38〜42章にあり、最後の締めくくり部分があって、ヨブ記は完結します。

 さて、27章のヨブ記を読む場合、口語訳聖書よりも、新共同訳聖書の方が、この章の意味をより鮮明に、あるいはわかりやすく訳していると思われます。
 1節「ヨブはまた言葉をついで言った」とあります。新共同訳では「ヨブは更に言葉をついで主張した」とあります。この章は、友人を反駁していく、ヨブの主張の強いところであります。友人たちは、ヨブの苦痛は、どこかでヨブが神に対して罪を犯したからだという、因果応報からの苦難の理解を主張するわけですが、ヨブは、自分は神の前に罪を犯したことはない、正しく生きてきた、それにもかかわらず苦難を受けている、義人が何故苦しむのか、という不条理な問題を、神に問うているのだ、と主張します。
 6節「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。1日たりとも心に恥じるところはない」(口語訳「わたしは堅く我が義を保って捨てない」)とあります。ヨブは、友人たちとの黒白を相当にはっきり主張しています(ここのところに27章の特徴があります)。

 私などは、自分にヨブのような自信はありませんから、こういう、断定的に物を言ってしまう言い方には、そもそもついていけない気がしてしまいます。ヨブ記を読んできて、断定的に相手を自分の立場の神学から決めつけてきたのは三人の友人たちではないかと思うのですが、ここでは、ヨブもかなり断定的に相手を決めつけています。
 7節、8節などは、自分に反対する自分の敵は悪人だということになり、なんだか、ヨブ自身が「小さな神」になってしまい、神の位置に立っているような気がいたします。
 ヨブ記を読み続けていって38章は最後の山場です。38章はヨブが神から叱られるところです。ヨブ自身が、神に対して誤りを犯していない、と言いながら、天地の創造者に対して自分の立つ位置を絶対化していることが明らかになっていく、という筋道から照らしてみると、27章のヨブは、自分を正しいとするあまり、かなり自己義認を犯してしまっている、と言える所があります。ヨブ記では、ヨブが正しいのではなくて、友人に対して自分の正しさを主張するヨブが、また、神の前に誤っているという構造があります。
 そういうことが38章まで、だんだんと上り詰めていく所が戯曲です。結論だけ読んでも、感動は伝わりません。
 27章は、ヨブの自己義認を起こしているような一面と同時に、他面、どこまでも神との関わりの中で自分というものを位置づけている姿があります。そこがこの章の大事な所です。
 2節は口語訳では「神は生きておられる」という言葉で始まります。ここは新共同訳ではこう訳されています。

 「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」

 口語訳は「わたしは誓う」という言葉が訳として出ていませんが、「神は生きておられる」というのは誓いの言葉です。神にかけて誓うのに、その神に形容詞をつけます。「わたしの義を奪い去られた方であり、魂を悩ます方だ」というのですから、そこには、自分を理不尽に扱う神になおすがるという、ヨブの信仰が出ています。

 そもそも、新約聖書のマタイ5章33節以下によれば、イエスは「一切誓うな」と言われていて、神にかけて誓うということそのものが、自己を「神の位置に座らしめる」ことだ、それは自己絶対化だと言われている所から見れば、誓うということも問題なのですが、なお、「自分を打つ神の手になおすがる」というところに、ヨブ記の実存的な意味がよく表れています。

 ヨブ記の中心をどこにみるか、について、ヨブ記研究の先駆者である浅野順一氏は、ヨブ記13章15節〜16節に中心をみる、と言っています。

「見よ、彼(神)は、わたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなお、わたしはわたしの道を 彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救いとなる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ」(口語訳)

 先週、「隠された神」ということを23章で申しました。隠れた神に追いすがりつつ生きる、これは浅野先生らしい、ヨブ記の捉え方です。実存的な生き方のプロセスそのものが、信仰者の姿なのだ、そういう生き方を可能ならしめる、神の強烈さに救いはゆだねられている、ということです。
 私たちの信仰の先輩が、人生というものを達観するのではなく、一日一日、まだ見ぬものを目指して、実存的に生ききっているということは、大きな慰めです。教会というものは、そういう先輩たちの信仰に引っ張られて存在していると言っても良いかと存じます。
 そういう点から読みますと、3節はなかなか味わいのある言葉です。

 「わたしの息がわたしのうちにあり 神の息がわたしの鼻にある間は」(口語訳)

 新共同訳はもう少しはっきりしています。

 「神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っている限り」

「…間は」とか「残っている限りは」と言われているのは条件文です。ここでも、ヨブは、自分を平安のうちに抱え込まない、魂を苦しめるその神の息吹によって、自分が存在していることに、自分の実存の根拠を置いています。
 神の息吹(息)と訳されている言葉は、ヘブル語の「ルーアッハ」という言葉です。これに関連して、私たちがすぐに思い浮かべるのは、ヤハウェ資料による天地創造の物語です。

 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(創世記2章7節)。

 「しかし、人のうちには霊があり、全能者の息が人に悟りを与える」(ヨブ記32章8節)。

 「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす」(ヨブ記33章4節)。

 「ルーアッハ」は「鼻から激しく息を出す」という意味で、旧約では数多く用いられ、おそらく、この一語を研究しても、大論文が書けるくらいの重要な言葉です。
 「ルーアッハ」を研究したスネイスという学者は、その研究の要約に、この語に強調すべき三つの点がある、と言っています。それは「力(強さ)」と「生命」と、そして、それは人間のものであるのとは反対に「神のもの」である。力とは、支配力であり、人間を意思的にさせる力なのです。

 かみのいきよ、われを医やし、
 疲れしこころを つよめたまえ。
 かみのいきよ、われをきよめ、
 みかたちの如く ならせたまえ。 (讃美歌177)

「ルーアッハ」の力とは、概念化されたものではなく、生きて働く力なのです。
 ヨブは、神から見捨てられたと思うところに身を置きながら、なお、神からの息に生きていることを、その存在の根拠にしています。

聖書は、関係の宗教だ、知的な理解の宗教ではない、と言います。信仰、義、契約、赦し、罪、愛、という聖書に出てくる重要概念は、みんな、関係概念です。霊、息、風を意味する「ルーアッハ」もそうです。しかし、この概念は、本当に、いのち、力、神から、という三つの特徴があるように、静かな関係というより、激しい関係、動的な関係というものでありましょう。
 聖書の信仰は何かを悟るという退いた所よりも、一歩踏み出していく関係、深みに入っていく関係です。

 作家の松下竜一さん(この方は、甲山事件などを書いた『記憶の闇』の著者として有名ですが)が、寝たきりの老父を看取った約2年間の日々を綴ったエッセイ『ありふれた老い』という本を書いています。病める人を抱え込んだ関係を、松下さんは、介護をマイナスと考えないでプラスに考えていく。「とりあえずやってみようか、ぐらいの気持ちで臨むのがいいのでは」と関係というものを流動的に考えています。

 ヨブも「神の息を鼻に受けている限りは」、いわば、とりあえずの神の息を鼻に注がれている、という、なかなかユーモラスな考えを示しています。
 私たちも、神の息吹を鼻に受けている、という思いをもって、日々の事柄に処していきたいと存じます。
 祈ります。

 神よ、先が見えない、と思うような時があります。でも、手がかりとなるものに、そっと触れながら、とりあえず、手をつけてみようという気持ちを起こさせてください。そんな時がきっと与えられることを信じることができますように。そこから先は、あなたにおまかせします。
 主イエスのみ名によって祈ります。