1995.3.12、神戸教会
震災から54日、復活前第5主日・受難節第2主日
説教要旨は翌週3月19日の週報に掲載
説教:神の息吹(1996年版『地の基震い動く時』)
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
ヨブ記 27:1-10、説教「神の息吹」
地震の経験を経て生活している者は、多少とも、それ以前の日常性とは断絶をして、「生かされているのだ」という新しい出来事の実感を持っていますから、震災前後を通して(7)から(8)(9)へと続けるのもどうかと思いますが、もし連続性に意味があるとすれば、「聖書を読む」こと自身が、非連続の連続のように、常に「神から」問われ、変えられる、という出来事の経験の積み重ねですから、「聖書を読む(7)1月15日」、「聖書を読む(8)3月5日」と続けています。
さて、ヨブ記27章は、ヨブと3人の友人たちとの対論の終わりに近い部分です。
ここのヨブは相当に自分の主張の正しさに固執します。
38章に、ヨブが神から叱られるところがありますが、その視点からすれば、ヨブの自己義認・自己正当化はかなり明白です。
しかし、注目すべきは、23章(前週)のヨブが「隠された神」になお肉迫しているのと同じく、「わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」(ヨブ記 27:2、新共同訳)と言っている点です。
ヨブ記の中心を、ヨブの神に迫る実存的あり方(例えば ヨブ記 13:15-16)に見るのは、浅野順一氏(牧師・旧約聖書学者、1899-1981)です。
”そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら、御前に出るはずはないではないか。”(ヨブ記 13:15-16、新共同訳)
27章のヨブは、自分の実存の根拠を「神の息がわたしの鼻にある間は」(ヨブ記 27:3、口語訳)と言っています。
”わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、”(ヨブ記 27:3、口語訳)
”神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っているかぎり”(ヨブ記 27:3、新共同訳)
「息」はヘブル語で”ルーアッハ”と言う言葉で、旧約聖書では大変に大事な用語です。
力強さ、生命、そしてそれは「神から」来るものを表しています。
讃美歌177番には次のように歌われています。
かみのいきよ、われを医やし、
疲れしこころを つよめたまえ。
かみのいきよ、われをきよめ、
みかたちの如く ならせたまえ。
聖書は「関係の宗教」で、知的理解の宗教ではありません。
聖書で用いられている大事な概念はみな「関係」を表しています。
例えば、愛・信・義・契約・赦し・罪などです。
「霊・風・息」を意味する”ルーアッハ”は、関係そのものの中に存在することの自覚を表現しています。
「神の息がわたしの鼻にある間は」とは、強靭でしかもユーモラスな信仰告白です。
作家の松本竜一さんがご自分の老父を看取った2年間の日々を綴ったエッセイを『ありふれた老い』という本にしています。
介護をマイナスに考えないで、「関係」を大事にして生きてこられた記録です。
”取り敢えずやってみようかくらいの気持ちで臨むのがいいのでは”
という言葉が心に残りました。
神の息を受けている者の日々の事柄への処し方への促しがあるように思いました。
(1995年3月12日 神戸教会説教要旨 岩井健作)