ヨブ記を読む(7)《ヨブ記 21:1-15》(1995 週報・震災の2日前・成人祝福)

1995.1.15、神戸教会週報、降誕節第3主日
(震災の前々日)

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)

ヨブ記 21:1-15、マタイ 6:19−21、説教「信仰の益」


 ヨブ記21章14〜15節にはこう記されています。

”彼らは神に言う、『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。”(ヨブ記 21:14-15、口語訳)

 これは、ヨブの言葉ではなく、彼とは対立の関係にある悪人、不信仰な者が語った言葉の引用ではありますが、またヨブ自身が抱いていた懐疑を、正直に告げているものでもあります。

 ヨブは、神を恐れる全き信仰者でした。

 それにも関わらず、一朝にして全財産を失い、7人の子供たちと死別し、自身重病に苦しみました。

 神は在るのか、在るとすれば、その神に祈り、かつ信仰するということは一体どういう意味なのか、「祈ってなんの益があるか」という疑問は、ヨブ記が掲げるテーマでもあります。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(ヨブ記 1:9、口語訳)はサタンの言葉です(いたずらに=”利益もないのに” 新共同訳)。

 宗教は神との取引であり、ご利益なくして信仰は成り立たない、という意味です。

 現に私たちの周りの人々を集める諸宗教は、健康や入試合格、仕事の成功、地位や名誉、商売繁盛の神を説きます。

 しかし、聖書はそのような請け合いをしていません。

 もちろん、いわゆる私たちにとっての幸は、賜物の一部ではあります。

 しかし、ヨブ記はその賜物を地上の幸福、地上の損益計算書に出てくる黒字だけを「益」とは考えていません。

 ヨブ記は、この「益」をしばしば問題にしています(ヨブ記 1:19、21:15、34:9、35:3)。

 この「益」(ヤータブ)は「助けになる、役に立つ、益になる」という意味で、ヨブ・イザヤ・エレミヤでは、ほとんど信仰からみて「益でない、役に立たない」という否定的な用いられ方をしていますが、イザヤ 48:17では、主が「あなたの利益のために、……教え、……導き、その行くべき道に行かせる」、新共同訳では「あなたを教えて力をもたせ」と訳されています。


”イスラエルの聖なる神 あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。”(イザヤ書 48:17、新共同訳)


 つまり地上の損益計算書を相対化し、天上にまで拡げ、それを含めた「益・力」と考えています。

 元来、信仰の益とは、地上では「逆説」であり、無益の益でありましょう。


 マタイ 6:20では「天に宝をたくわえなさい」と言われています。

”「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」”(マタイによる福音書 6:19-21、新共同訳)


 私たちは「益」の尺度を少し大きく取るように、信仰の世界へと召されているのではないでしょうか。


”神を愛する者たち、つまり、御計画に従って、召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙 8:28、新共同訳)


 パウロのこの言葉は、危機における拠り所です。

(岩井健作記)


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