わたしの贖い主《ヨブ記 19:25-29》(1995 説教要旨・ヨブ⑥・元旦・震災の16日前)

1995年1月1日、降誕節第1主日、元旦礼拝
(震災の16日前)

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)

ヨブ記19:25-29、ロマ3:23−26、説教「わたしの贖(あがな)い主」岩井健作

 ”わたしは知っている わたしを贖(あがな)う方は生きておられ ついには塵(ちり)の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」とあなたたちは言う。この有様の根源がわたし自身にあると あなたたちは言う。あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。”(ヨブ記 19:25-29、新共同訳)


 19章がヨブ記の中でどのような位置にあるのかは、次の一文がよく語っています。

 以下、中沢洽樹(こうき)著『ヨブ記 新訳と略註』(新教出版社 1991)所載の付論「ヨブ記の解釈をめぐって」より引用する。


 ”内村(鑑三)はかなり早くからヨブ記を愛読し……ております。有名なのは1920(大正9)年の4月から21回にわたって東京大手町の衛生会館講堂でなされた『ヨブ記講演』であります。……そしてヨブ記16章から19章にかけて現れる一連の仲保者的存在については、次のような解釈を述べております。まず、16章19節の「証人」については、神自身ではなく「神の如き者、または人の如き者にして我等の弱きを思いやり得る者、神にして神ならざる者、人にして人ならざる者、即ち神の子たるものである」としております。さらに17章3節の「保証」については「神自身でなくてはならぬ」と言い、有名な19章25節の「われを贖う者」についても、これを「神」ないし「キリスト」と解しております。内村はこの19章をヨブ記の絶頂と見、この箇所を講じた時昂奮(こうふん)のあまり卒倒しそうになり、その後数週間休んだということであります。”(中沢洽樹著『ヨブ記 新訳と略註』新教出版社 1991)


 これは凄い、と思いました。

 著者・中沢洽樹氏は他に4人の日本におけるヨブ記解釈について触れています。


 高倉徳太郎氏は、ヨブ記の主題を「贖罪」に置いたこと、有賀鉄太郎氏は「神の全能と全知の前に、人間の限界を示すことが主眼」と捉えていること。

 浅野順一氏については次のように指摘します。

 ”(浅野順一氏は)ヨブ記の主題を「義人の苦難」とする点は多くの人と同じですが、神義論的な理論よりも実存的理解に立っているのが特徴です。したがって、「しかしなおわたしはわたしの道を 彼(神)の前に守り抜こう」(ヨブ記 13:15、口語訳)という句をヨブ記の根本問題を表すものとして重視します。19章の「贖う者」については、「怒りの神」に対する第二の神として「和らぎの神」と解し、間接的に新約聖書のイエス・キリストを指すと見ている。”

 関根正雄氏については、ヨブ記の中心主題を「神の故に神を信じ、苦難の中で神を義とする苦難の神義論」とし、「贖い主」を「怒りの神・敵なる神」に対して「恵みの神・友なる神」と解していること、問題の解釈を31章と38章におき、創造世界に位置付けているのが特徴的だと述べています。


 さて、中沢洽樹氏自身ですが、彼は19章を独特に解釈します。

 「贖い主」を神ではなくヨブを弁護する天上の希求的存在とみて、ウルガタ訳(ラテン語)に従い、「塵の上に起き上がる(地の上に立つ)」のは「神」ではなく「ヨブ」とするのが特徴です。

 いずれにせよ、ヨブ記は自らの「苦難」と結びついて読まれています。

(1995年1月1日 週報 岩井健作)


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1995年 説教

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