1995.3.5、神戸教会、復活前第6主日・受難節第1主日
説教要旨は翌週 1995年3月12日の週報に掲載
▶️ 週報「雑感」
説教(1996書籍版)、 説教(2005書籍版)
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
ヨブ記 23:1-11、説教題「神はわたしの歩む道を知る」
”しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。”(ヨブ記 23:10、新共同訳)
昨日(3月4日)土曜日の夕方、急遽ガスが回復して、礼拝堂の暖房が使えるようになり、久しぶりの懐かしい場での礼拝を感謝したいと存じます。
3月1日から受難節(四旬節、レント)です。
今年のレントは地震に関連して、ことのほか悲しいこと、試練と思えることをたくさん抱えています。
知らないうちに祈ることが多くなりました。
さて、今日のテキストで、ヨブは叫んでいます。
”今日もまた、わたしのつぶやきは激しく、彼の手は、わたしの嘆きにかかわらず、重い。”(ヨブ記 23:2、口語訳)
家財、家族、健康、友人を奪われたヨブ(ヨブ記1章2章参照)の苦しみが滲んでいます。
ここでいう「彼の手」は「神の手」です。
「神」がヨブを撃つ手は重い、という意味です。
ヨブは自ら神の前に正しく歩み、神のみが公正に彼を裁くことができると信じ、神との弁論を望んでいます。
そのヨブに「神の手」が重いのです。
ヨブ記には「神が隠されてしまった」と思われる箇所があります(ヨブ記 9:11、30:20)。
マルティン・ブーバー(ユダヤ教の宗教哲学者 1878-1965)は「神の蝕(しょく)」(日蝕のように欠けていて、神が見えないという体験)ということを言います。
”神へのおそれを前もって経験せずにおいて、直ちに愛から出発する者は、実は、自分の手で作り上げた或る偶像を愛しているのである。だからこの場合に、それを愛することはいとも易いことであるが、しかし、彼は真の神を愛しているのではない……”
これは私たちにとってなかなか厳しいことです。
例えば、友人のエリパズは22章でヨブに対して「あなたが彼(神)に祈るならば彼はあなたに聞かれる」(22:27)と申します。
これはヨブにとっても真理でしょう。
しかし、友人はそのことの理解に留まっています。
ヨブは「祈りは聞かれる」と信じつつ、なお現に祈らざるをえない絶望から、祈っているのです。
今日のテキストを新共同訳は次のように訳しています。
”今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い。”(ヨブ記 23:2、新共同訳)
「手」を「神の」と訳すのは、70人訳、ルター訳、RSVなどです。
原文は「わたしの手」、つまり「祈る」ために挙げられた「手」です(詩編 77:2、出エジプト記 17:12)。
「手をあげる」は古来の祈りの基本姿勢です。
そこには、彼の方から閉ざされているにしろ、「彼(神)はわたしの歩む道を知っておられる」(ヨブ 23:10)という信仰が示されています。
”しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。”(ヨブ記 23:10、新共同訳)
私たちは自分の人生につき、自分でどれほどのことも知りません。
しかし、つぶやきながらもなお手に力を入れ、祈ることは許されています。
祈りの手を保とうではありませんか。
(1995年3月5日 説教要旨 岩井健作)