被災地の一隅から(その1)(1995 震災・3月)

「福音と世界」1995年4月号 所収 新教出版社、
冊子「被災地の一隅から」所収

(健作さん61歳、震災から2ヶ月、牧会37年目、神戸教会牧師17年目)


 被災地の只中におればこそ、饒舌になることを恐れる。被災といっても、どの辺りでものを言っているかをまず明らかにしておかねばならない。

 この度の地震は、淡路島の北淡町から西宮・宝塚に至るいくつかの活断層の複合的な活動によるものだと言われている。

 鉄筋コンクリートや鉄骨構造の建物が倒壊した地点は、須磨海岸国民宿舎須磨荘から西宮市の山陽新幹線高架に至る25キロメートルの間で、幅200メートルから300メートルの帯状になって伸びていることが、日本建築学会近畿支部の調査で分かったという。そこは震度7の地帯で、東西に走る狭い帯の中にあった鉄筋コンクリートのビルの倒壊率は約5割である。この帯を挟んで2キロの範囲で木造家屋は倒壊した。特に古い日本家屋の倒壊が目立った。加えて、長田、兵庫、中央、灘、東灘では倒壊に追い打ちをかけて猛火が襲った。5433名(兵庫)の死者のほとんど、また8万7000棟の倒壊家屋の大部分はこの地帯に属する。

 筆者もこれらの地帯には何回も出かけたが、惨状は聞きしに勝るものである。けれども、この帯状地帯を一旦離れると、特に山麓地帯に近づけば、被害はずっと少なくなり、倒壊家屋はほとんどない。一方、多くの都市機能の中枢はこの災害ベルト地帯にあった。市役所、市民病院、高速道路、三本の鉄道、下水処理場、港湾施設。例えば、東灘区の下水処理場は破壊され、上の方で上水道が回復すれば、ますます瀬戸内海に汚水が流出するという。以上の点を考えると、この度の震災は、被害の局地性ということと都市機能の破壊という大きな特徴をもっている。

 被災の局地性ということは、それを負った者と負わなかった者の違いが大きく、その断絶も深いということである。ある人は、死別を経験し、住居を失い、職業を失っている。

 が他方、同じ区内にいながらも何も失っていない人がある。都市機能が失われているという意味では、多くの市民が被災者である。

 歩いたり、自転車やバイクを使ったり、車の渋滞にまき込まれたり、水汲みをしたりの生活が相当期間続いて、みな疲れが出て来ている。

 他都市、他地方の人には理解しかねる状況であろう。そういう意味で、極度の被害に出逢った者からはじまり、被災都市に住むという程度の意味で被災者である者まで、濃淡があり、それぞれの立っている地点は異なるのである。本多勝一氏が「阪神大地震ー弱者を襲った『差別的人災』としての」(「週刊金曜日」2月3日号)と言うように、同じ災害を受けても復元力の弱い弱者のところに矛盾が寄せられていることは現実である。

 と言って、被災については、どんなに行政や周囲の者が支援をしても、どうしても自分で負わざるを得ない部分がある。

 無論、限りなく平等に被災を担う手立てが講じられる必要はある。政府・行政はそのための施策を極力講じなければならないし、連帯という面から言えば、一般義援金・各ルートの支援体制が作られる必要もあるだろう。

 それでも、外からの補いとは別に、被災者自らがどうしても負わなければならない部分が重く残る。いわば、「自立と連帯」の関わりであるが、今回の地震はそのことを極限で問うている。

 エピソードがある。N市のS牧師のところに知人の書籍出版会社の会長のMさんが、「何か支援できることは?」と電話を下さったので、即座にS牧師が「被災者の入る仮設住宅を建てる資金が欲しい。一億円送って下さい」とお願いしたところ、M氏はさすがに絶句されたという。同時にM氏は「この地震が何であるか」を悟ったという。

 地震の被害を負うということは不条理な面が強い。しかし自ら負わねばならない。天災にはそのような面がある。

 しかも、局地性が濃く、被災の度合いが多いほど、連帯の輪を広げねばならない。

 この自立と連帯の微妙なバランスをどう持続して生きるかが、これからの被災地の課題であろう。


 私はと言えば、あの時、中央区花隈町9-16、神戸教会牧師館で寝ていた。ゴーッ、ドッドッドッドカーン、ガッガッビシービシーと第一撃を喰らった。たまたま例の活断層線上の震度7は外れていたのであろうか。花隈(山が海に向かって鼻のように突き出し、曲がっていることから来ている名)は、地盤の固い段丘地である。

 築35年の木造牧師館は倒壊を免れた。築65年の教会堂はさすがに塔屋の部分の4本の柱に深い亀裂が入り大規模な修復工事が必要となったが、使用には耐える現状である。

 という訳で、極度の被災者とはほど遠くにいながら、都市機能の破壊された只中にあり、被災と救援との二重性を負うこととなった。


 この度の災害で神戸市の行政の対応は後手後手であった。今までの、いわゆる株式会社神戸市の経営方式による街づくりが、根底から破綻したという思いがする。

 早川和男氏(神戸大教授)の「災害無防備都市・神戸はこうして作られた」(「週刊金曜日」2月3日号)という論考によれば、神戸市は「行政が『主人』の町」だったという。経営がうまく行っているので政党はオール与党、一握りの批判勢力である住民運動は常に圧し殺されてきた。現に早川氏の参加するシンポジウムから神戸市は後援すら取り下げてきたらしい。主催者が慌てて早川氏を外すという酷い状況であったようだ。

 安心して住める町づくりは、これから「市民が立ち上がるかどうかにかかっている」と刺激的な言葉で論考を結んでいる。

 街づくりへ、どのように関わってきたかは私たち市民の責任となる。自分たちが負ってこないで行政に寄りかかってきた分の責任が問われる。

 被災の中でこそ培われる自立を、再建の街づくりに繋げていかなくてはならない。支援や連帯のあり方が問われるだろう。

 今度の災害救援活動の中でボランティアの働きが評価されている。行政が機能しなかった分だけ、「自立と連帯」の課題が担われたのではないか。

 ある避難所で私の知人の市職員が配給に携わったら、被災の人たちは分配に平等と公平を要求したという。しかしボランティアが、みんなが助け合おうという気持ちで分配をする時には文句はなかったという。

 老人訪問をしたボランティアは、世話をすることではなく、地域の人にその老人を繋げ、さらには、老人その人が活力を見出すようにうまく働きかけることが目的だという。いつの間にかいなくなって、その後に自立と連帯が残るのが、ボランティアの働きというものであろう。

 人はバニッシングポイント(消滅点)に向かって消えてゆく時、その人のいのちを残す。


 地震を「天罰」「神の審き」と受け取る論調が、震災後かなりあった。賛成である。

 イザヤ24:18で、預言者はバビロニアに向かって「地の基が震い動く」ことを預言する。繁栄を誇った民族に、地震は高慢への衝撃を与える。

 しかし、それは只の審きではない。自立と連帯への再度の促しである。

 この1ヶ月余り、多くの離れた地の方々から、支えと励ましを受けた。

 地震がそのような新しい関係を生み出すとすれば、この審きは恵みと共にある。


被災地の一隅から(その1)(1995 3月)
被災地の一隅から(その2)(1995 9月)
被災地の一隅から(その3)(1996 震災から1年8ヶ月)
被災地の一隅から(その4)(1997 震災から2年)
この冊子をお読み下さる皆様へ(1996 震災から1年10ヶ月)

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