神の息吹(2010 礼拝説教・ヨブ)

2010.10.3、明治学院教会(206)
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(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)

ヨブ記 27:1-10

1.27章はヨブと友人との対論の9回目です。

 この後、29−31章は結論部分の神の弁論とヨブの答えに続きます。

 1節の「ヨブは…主張した」はこの27章の特徴をよく表しています。

”ヨブは更に言葉をついで主張した。”(ヨブ記 27:1、新共同訳)

 友人の「因果応報」の苦難理解に対して、ヨブは「義人が苦しむ不条理」を神に問うているのだ、という主張です(ヨブ 27:5-6)。

”断じて、あなたたちを正しいとはしない。死に至るまで、わたしは潔白を主張する。わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じることはない。わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ。”(ヨブ記 27:5-7、新共同訳)

 強い調子の断定で論議を進めてきたのは友人たちなのですが、ここはヨブもかなり断定的な口調です(ヨブ 27:7)。

 38章では、全能者に対してヨブが自分の正しさを主張するときに陥った「絶対化」が、神から戒められるところですが、その前兆がこの章にはあります。

 そこまで登り詰めていく文学的道程を読み取ることが大事です。

2.2節では「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」とあります(ヨブ 27:2、新共同訳)。

”わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う。”(ヨブ 27:2、新共同訳)

”「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。”(ヨブ 27:2、口語訳)

 これは換言すれば「自分を撃つ神になおすがる」という「逆説」を示しています。

 このテーマにヨブ記の中心的主題を見るのは浅野順一牧師です。

 浅野順一氏は、ヨブ記の中心を「ヨブ記 13章15−16節」に見ます。

”見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。”(ヨブ記 13:15-16、口語訳 1955)

”そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら御前に出るはずはないではないか。”(ヨブ記 13:15-16、新共同訳)

「隠された神」に追いすがって生きるという強烈な実存があります。

 聖書に登場する信仰者とは、人生を達観するのではなく、未だ見えぬもの(隠された神)を目指して、なお実存的に生き切って行く者のことを言っています。

3.3節では、このことが別な表現で繰り返されます。

”神の息吹がまだわたしの鼻にあり、わたしの息がまだ残っているかぎり”(ヨブ記 27:3、新共同訳)

「息吹」の原語は”ルーアッハ”です。「霊・風・息」と訳されています。

 ”風”を意味する87回は、雨と結びついて強い北風、砂漠で砂を巻きあげる東風を表現しています。

 創世記2章7節では「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を入れられた」のように「生命」と結びついています。

「息吹 ”ルーアッハ”」はヨブ記でも大切な語句として用いられます。

① 悟りを与える(32:8)

”しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。”(ヨブ記 32:8、新共同訳)

② 命を与える(33:4)

”神の霊がわたしを造り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ。”(ヨブ記 33:4、新共同訳)

 この”ルーアッハ”という語句の研究者•スネイスは、この語の特質を「力・生命・神から来るもの」と3点挙げています。

「激しい関係、動的な関係」を示しています。

 ここには人間(自分)を徹底して関係性として捉えることへの促しがあります。

 関係性とは「息」という、断定には馴染まない、流動的な「相手」との関わりの感知、受容、そして自覚です。

4.伝道者•難波宣太郎(1865-1945)が遺した有名な漢詩があります。

劣才無策、未だ嘗(かつ)て窮せず
もと是れ時に随(したが)ひ風あるに由る
碌々(ろくろく)の生涯なるもまさに感謝すべし
春夏秋冬、去来の中
(参照『和服のキリスト者、木月道人遊行記』竹中正夫、日本基督教団出版局 2001)

 自分の生涯を「時にしたがい風あるによる」と風(神の息吹)との関係性として捉えている柔軟さがあります。

 ヨブは一方で、友人が関係性に生きていないことを批判し、他方で、自ら言葉では「神の息吹」の関係性を語りながら、それでもなお硬直した閉塞に陥っていく時、改めて、本物の「神の息吹」に吹き飛ばされていく経験をしたところが、強烈でまた素晴らしいところです。



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