わたしが大地を据えたとき  95.4.2

説教 於神戸教会 1995年4月2日
震災から75日目、受難節第5主日

(サイト記)本テキストは1996年版にのみ収められた説教です。


ヨブ記 38:1-11

 今朝もヨブ記を続けて学びます。
 初めての方もおられるので、ヨブ記全体のあらすじをもう一度たどってみます。
 ヨブ記は1章、2章が古い伝承に基づいた、短い物語です。ここが序曲となり、また内容的には、それに続く長い詩による戯曲の問題提起になっています。

 経済的に豊かで、信仰の篤いヨブという人物が登場します。彼は、ある日突然、財産を失い、家族と死別し、さらに病気にかかります。想像を絶するいわれなき苦難に出会います。しかし、ヨブは「われわれは、神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と、神への信仰を失いません。しかし、こういう信仰のあり方は、当時の一般的な信仰の考え方とは相いれませんでした。人生は「良いことをすれば良い報いがあり、罪を犯せば災いがある」と考えられていました。因果応報の教えです。そうして、この因果応報の秩序は、人々には壊れては具合の悪いものでした。そこで3章から長い長い、ヨブと三人の友人たちとの問答が始まります。「どこかであなたは悪を犯しているのだ、悔い改めよ」という論陣を友人たちは張ります。これに対し、「私の苦しんでいるのは、正しい者が何故苦しむのか、ということなのだ」とヨブは主張します。何回にもわたる問答の末、答えを得られないまま、ヨブはもはや友人たちを相手にせず、直接神に向かって論争を挑み、答えを要求します。そして、神が私を苦しめている、しかし、その答えも神のみが持っておられるという信念のもとに、神に迫ります。「答えない神」「隠されてしまった神」との戦いが続きます。

 ヨブ記は、旧約聖書の39巻の書物の中では、比較的後期の作品で、それ以前に形作られていた、律法の書や預言の書とは、異なったテーマを扱っています。律法や預言書では、「神の意志」「神の声」がはっきりしていました。神に従うのか、神の前に悔い改めるのか、が根本的問題でした。神に対しては「決断」とか「行動」が問われていました。ところが、ヨブ記では、そうではないのです。「隠されてしまった神」、マルティン・ブーバーが「神の蝕」(つまり欠けていること)と表現したような、神、呼べど叫べど応えない神が問題になっています。そのような神に対して、なお「悟る」ことが求められています。その人間の知恵、英知が問題になっています。

 私たちでも、怒鳴られたらわかる、という関係の中で、道理や真理に目を開くというわかり方もあります。しかし、ヨブ記ではそうではないのです。自ら「悟る」ことが促されています。真理は説得によって明らかにされる、というのであれば、ヨブ記では、三人の友人との問答に続く、エリフの説教(32-37章)の中で、道理は説得的に説かれています。説得というのは、「問い」に対して「答え」を出し、説得する、ということです。

 友人たちに絶望したヨブは、神ご自身がヨブを説得することを求めます。ヨブは、正しい者が苦難を受けるという不当さを神に抗議し、神の答えを求めます。見えない神を問い詰めます。神を問い詰める実存的生き様の見事なのがヨブ記です。これは大切な側面です。このような真摯な生き方を失うならば、人間はいつしか「神」を自明なものとして、自分の内うちに抱き込んでしまいます。神についての教理の危険、「神学」の危険というものは、いつもそこにあります。
 そういう意味では、繰り返し申し上げましたが、ヨブ記の中心を、13章15節〜16節に見る、旧約学者浅野順一氏の指摘は、正しいのです。そこを読んでみます。

 「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか。神を無視するものなら、御前に出るはずはないではないか。」

 ところが、今日お読みいただいた38章は、そのような真摯なヨブの問いに、神は応えてはおられないのです。問いに答えるべき神はいつの間にか、ヨブが自分の心に描いた神になっていました。38章では答えない神が登場します。
 ヨブ記を初めから読んできた時、いつもここのところで肩透かしを食った思いにさせられます。神を「問い詰めて」きたヨブに、神は答えません。逆に、ヨブに対して「問い」をもって迫ります。問いには問いをもって、という禅問答のような文学形式の背景には、古代エジプトの「知恵」の伝統というものがあると、ヨブ記の研究者は指摘をしています。
 問いには問いをもって、問いそのものを相対化することで、神はヨブとの人格的な関係を明らかにさせるのです。38章は、つまり「正しい者が何故苦しむか」「義人の苦難」ということには、答えていないのです。ヨブ記はこのことには答えていない。苦難そのものを問題にしてはいないのです。ヨブが、これは中心問題としているところを、神は「問い」をもって置き換えているのです。

 ヨブは確かに、義人として正しく生きています。そして苦難を受けます。何故苦難を受けるのか、を中心問題として固執しているヨブが、いつの間にか、その問いが解ければ全ては解決する、というレールにはまり込んでしまいます。そこを突破口とする、真面目な生き方をします。極めて実存的です。しかしそこには、真剣であるがゆえの落とし穴があります。真面目に生きることは正しいことですが、そこが落とし穴となります。その落とし穴からの解放が、神の問いです。

 今日の2節のところに「神の経綸」(口語訳「計りごと」)という言葉があります。神の意図・計画という意味です。
 ヨブ記の著者の主要な関心は、ここに至って、苦難の意義を知るということではなく、「神の経綸」であることがはっきりします。苦難の意味づけではなくて、神の神たること、人の人たる所以を悟ることにあることが明らかにされます。これが英知というものです。ヨブが求めていた神ではなく、ヨブが知っていた神ではなく、「生ける神」、つまり、どこまでもヨブに関わり続ける神、ヨブを許し包む慈しみの神であればこそ、問いに対して問いを突きつけるのです。創造の秘義を語る神であります。

「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」という問いは、強烈な問いです。人間の、己が義、人間中心を打ちのめします。この度の地震で私たちはそのことを知らされました。

 私はこのところしばしば瓦解した下山手カトリック教会を訪れます。夕方、ここには人影はありません。取り片付けをしていないその佇まいは、静寂であればあるほどに、計り知れない神の力を証ししているようです。崩折れがそのままになっていることに逆に救いを覚えます。それは私たちの価値観の転換を求めているからです。原初に帰ること、これは私たちの行き着く地点ではないでしょうか。

 祈ります。
 「大地が、人の世が、生み出される前から世々とこしえに、あなたは神」(詩編90:2)。そのような信仰を抱いて、この週も励むことが許されますように。
 主イエスの名によって祈ります。アーメン