1975年3月30日 復活祭(イースター)礼拝
岩国教会週報「先週(棕櫚の聖日礼拝)説教より」
(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)
「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。(ヨハネ 19:15-16)
その時代のローマのユダヤ総督ピラトは、イエスを許そうとした。彼は統治者として死刑執行権を持っていたが、イエスが「ユダヤ人の王」であるか否かは、ユダヤ人の宗教の真理問題に属することなので、ユダヤ人たちに問題を突き返している(19:13は解釈の仕方によってイエスを裁判席の中心につけて議論を展開したとも読める)。ところが、ユダヤ人たちは逆にピラトがカイザルに忠実ではないと彼の失脚を暗示した脅迫を行った。そこでピラトは「あなたがたの王をわたしが十字架につけるのか」と何とも歯切れの悪い発言をするが、彼らは「わたしたちはカイザル以外に王はない」という。以下は先に引用したテキストの通りである。
人はそれぞれ真理につき信じるところが異なるかもしれない。しかし、真理が自分によって絶対的なものとされたら、相手を殺すところまで行ってしまう。だから、真理を問題にする場合に確保することは、自分の信じるところを放棄することではなく、自分の信じるところが他人の信じるところとの関わりで、問題にされ直され、深められることのあり得ることを認めなければできるものではない。そうでないと、真理を問題にする場合、政治的死刑執行の場に明け渡してしまうことになる。イエスはそのような「明け渡し」の中で十字架につけられた(種谷裁判では、種谷牧師と高校生とが高校問題に対する見解を異にしながら、それを考え直す場の確保で種谷牧師が譲らなかった態度がすばらしい)。
私たちも、日頃の生活で自分と同じ真理(考え方)に立たないといって、相手との共通の信頼関係の場まで壊し、外の力に明け渡してしまうことがありはしないか。そういう生き方をするたびに、イエスを十字架につけているのは他の人ではない、この自分であることを、深く省みさせられます。それでもなお、イエスの招きを聴くとすれば、そこに愛を感じないでしょうか。
(報告欄より)
本日(イースター)礼拝後、CS中学生クラスピクニック(亀の里訪問、無線塔登山)


