ゆだねられた務め(1975)

1975年1月26日 岩国教会週報「先週説教より」

(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)

それはわたしにゆだねられたつとめなのである。(コリント第1 9:17)

 「福音を宣べ伝える」ということは、パウロにとっては、人間が人間として生きていくための根源的生き方を現していくことであった。それは決して自分の持っている観念体系で人を説得し信じ込ませることではなかった。もしそうであれば、それは宣伝とか説得に類することになるだろう。彼が自分の生き方とし、しかも人間としての共通な普遍性を持つあり方として「福音」と言うとき、それはイエスの十字架によって示されたあり方、つまり自分本位というあり方が折られてなお他者と関わっていく愛のあり方を意味していた。だから、それを宣べ伝えるということは特殊な宣伝ではなく、「そうするように定められている」(16節 講談社訳)人間としての根源的なあり方を意味していた。コリント第1の9章は、使徒職に対して固定的・知識的理解しかできなかったコリント教会の主だった人に対して、パウロが「十字架による在り方」を前面に出して挑戦・叱責している場面と捉えることができよう。福音を宣べ伝えるということは特殊なことではない。己を捨てて他者に関わる普遍的あり方、十字架を負う在り方、普遍性を持つあり方である。先日の社会問題セミナーで、鄭敬謨(チョンギョンモ、『民族時報』主筆)氏が、日本人ほど国家主義的民族主義が優先して、人類普遍の人間としての在り方が弱い国民はない、それゆえにつき合いにくい、と言ったことは、痛烈であった。我々は、十字架の福音に生きる故に、人間としての「ゆだねられた務め」に生きるように召されているのではないだろうか。

(岩井健作)


BOX-1. 岩国教会

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