十字架の言葉と知恵の言葉(1974)

1974年8月11日 岩国教会週報
「先週(平和聖日)説教より」第一コリント1:18-25

(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)

十字架の言(ことば)は…救(すくい)にあずかるわたしたちには、神の力である。(コリント第一1:18)

 誰にも、生活の根っこのところには、割り切れない呻きのようなものがある。そうしたものを何とか納得のゆくように説明し、解釈することによって、人は幾らかでも慰めを得ることができる。しかし他方で、その解釈は、たとえ宗教的な知恵に基づくものであっても、現実から目を背けさせる論理となる危険を常にはらんでいる。自分の解釈の中に現実を取り込むあり方を、パウロは「知恵の言葉」(1:17)として退ける。苦しみを負うことによって、かえって生かされていく。そのようなあり方の中にこそ「真実」があることを、イエスの十字架に心を集中することによって取り戻そうとする。そのことが「十字架の言葉」(1:18)が強調していることである。死の現実へと引き戻されることによって、人は新しい生へと変えられていく。この転換に立ち帰るとき、私たちは「救いにあずかる者」とされ、「神の力」に生かされるのである。

 本日、平和聖日にあたり、『韓国のキリスト者から日本のキリスト者へ』のメッセージ(1974年2月11日)の一節に改めて心を寄せたい。朴政権下、殉教者的な覚悟をもって民主化闘争に身を投じている彼らが「これによって主の苦難に参加し得る㐂び(よろこび)を味わう」といい、この時を「十字架に架けられた主の復活に対するキリスト者の信仰の証しの機会」として生き、このことを「涙の溢れる㐂び」と告げている。そして「孤独な戦いを今も続けている」ことの助けを求め、祈りを求めている。

 社会的な働きを、論理として語るのではなく、呻き、十字架として生きている彼の地の教会から学びつつ、私たちの足元からの信仰生活を深めていきたい。

(1974年8月4日 平和聖日 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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