二つの招き《ルカ 14:15-24について》(1996 週報・説教補助・震災から1年)

1996.2.11、神戸教会
降誕節第7主日、信教の自由を守る日
▶️ 同日発行の教会報

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)

この日の説教、ルカ 14:15-24「二つの招き」岩井健作


”「大宴会」のたとえ” (ルカ 14:15-24)の話は、並行記事が、マタイ福音書21章1〜10節、トマスによる福音書(外典福音書『隠されたイエス』荒井献、講談社 1984)64にある。

 私たちが手にすることが出来る、ごく一般的な書物に『イエス・キリスト』(荒井献、講談社 1979)があるが、それによれば、3つの福音書に記されている、この物語が対観され、若干の比較論評が加えられた後、この譬え話の原型の復元が試みられている。

 ”ある人が盛大な晩餐に有産市民を招いたが断られたので、彼は怒って「道」にいた無産者を連れて来させた。”

 そして、この譬え話では「地の民」(差別されていた無産者)を受け入れるという点で、イエスの振る舞いがほぼ事柄に即して「ロゴス(言語)化」されている、と荒井氏はいう。

 さらに注目させられるのは、『イエスの譬え』(エレミアス著、善野碩之助訳、新教出版社 1969)によれば、イエスは周知の物語資料を用いられたのであろう、ということである。

 それは、パレスチナのタルムード(ユダヤ教の宗教的法律とそれに関する議論の集大成)の中のアラム語(イエスの日用語)で記された「富める取税人バル・マヤンと貧しい律法学者についての物語」の話である。

 バル・マヤンは、死んで立派な葬式を出した。

 街全体が仕事を休んで彼を見送った。

 時を同じくして、死んだ敬虔な律法学者の葬式に人々は注意を払わなかった。

 バル・マヤンは、敬虔な生活とは程遠い生活をしたが、一度だけ善行をした。

”彼は市の参事会員たちのために宴会を催したが、彼らは来なかった。そこで彼は、食物が無駄にならないように、貧しい人たちを連れてきて、食べさせるようにと命令した。”

 というのが善行であった。

 彼が招待を目論んだのは、以前からその地位にある人々から、その同じ仲間として受け入れられたかったからである。

 しかし、彼らは申し合わせたように、彼に背中を向けて見えすいた口実で彼の申し出を拒絶する。

 そこで彼は怒って「貧しい人たち」を家に呼び入れた。

 言ってみれば、新興成金の招待を、上流階級社会の特有のやり方で断ったということである。

 彼の味わった人間的惨めさ、差別、侮辱がバネになって、彼の上昇志向は折られていく。

 イエスはこのような人物に目を留められて話された。

「怒り」を媒介として、誰に心を開いてゆくのか。

 これは極めて今日的物語であるように思える。

 出世の頂点を見上げる構造から、自由でありたい。

(1996年2月11日 神戸教会週報 岩井健作)


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