内と外をつなぐ会堂(1996 震災から1年・神戸教會々報 59)

震災修復工事 完了記念号
1996年2月11日発行
▶️ 同日週報

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)


「なぜこの会堂は倒れなかったのでしょうか?」

 震災に残った神戸の近代建築を取材に来たMBS毎日放送の記者の質問をテレビカメラの前で受けてとまどった。

 咄嗟に、第一に、関東大震災を教訓にした耐震構造だったこと。第二に、1991年に会堂外壁と屋根の大規模補修を実施していたこと。第三に、花隈町の地盤が堅かったこと、などと答えた。

 しばらく時が経って、それでは答えになっていないという思いが心の中でだんだん強くなった。


 そこで、もう一度地震直後の1955年1月22日の説教「地の基震い動く時」を読み返してみた。


”地震により使命を終わった会堂、あるいは、もう少し使命を与えられている若い会堂というべきかもしれません。曲がりなりにも、幸・不幸という尺度で考えられるべきではありません。「主は与え、主はとり給う、主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)という言葉は、ここでも、私たちに語りかけられてきます。”


 とすれば「謙虚に、そして精一杯、会堂の傷みをありのまま受けとめ、心をこめて、丁寧に修復し、神のみ業に用いて頂くのが、会堂を託された群れの役目ではないか」との思いに導かれた。

 この度の修復のわざを顧み、すべてのことが我々の願い以上であった。

 多くの人々の協力とそれを包む神の祝福を覚え、心からの感謝の祈りを捧げたい。


 1955年4月の教会定期総会では「阪神大震災による教会施設等損壊部分修復のための募金に関する件」が可決された。

 会員の中に全壊30軒半壊58軒をかかえ、県内外の親戚知人宅への疎開者、避難所、仮設住宅生活者がおられる中では大きな決断であった。

 さらには、当面の費用への一時転用を含めて、匿名でオルガン指定として、相当額の献金が捧げられたことが大きな励ましとなった。

 そして一方の修復工事を支える募金活動は、委員会が組織され活動が続けられている。


 修復工事の経過については営繕部の詳細な報告に意が尽されている。工事を近くで見させていただいた者の思いを幾つか記させていただきたい。


 建築物にとって、建設の思想と修復の思想とは自ずと異なるものだ、ということを考えさせられた。

 地震の痕、取り壊して再建か、修復か、の考え方の境目にあって、出来る限り修復を、特に古いものこそ修復を、という考え方に立たれたのが京都大学工学部建築学科の西澤英和先生であった。

 建築は理念から発想するが、修復は、傷んだ建物の実態から発想する。傷を癒すように手をふれてみて、理念を問い、現実からフィードバック(帰還)しながら思考していく。

 西澤先生の指導とそれを実施した(株)アレスが後者の考え方に深く立っていることに感銘を受けた。

 特に、8月から2ヶ月以上にわたって独りで、手仕事で無数のコンクリートの亀裂に樹脂注入をコツコツと行った職人の藤野さんのこと、そして全行程の記録を現場事務所で、時には夜おそくまでかかって仕上げた現場監督の大重さんのことは忘れられない。

 そしてこれらの出会いは、神戸大学工学部建築学科の足立裕司先生への相談が糸口であった。

 足立先生が早くからこの会堂に心を寄せられていたのは、先生の専門が建築史ということもあったと思われる。

 しかし、もう少し違った面から考えると、会堂そのものの存在の重みとも言えないだろうか。

 この会堂は、1932(昭和7)年に献堂されたが、そこには当時の教会員の信仰の証しが込められている。

 第二次大戦下の損傷は、今写真で眺めても記録をみても痛々しいものがある。

 が、戦後焼け野原の中にあって神戸の街への宣教の拠点であり続けた。



 建物はほぼ20年に一度は大規模な補修が必要だと言われる。

 特に蓄えがある訳ではない教会は、その都度、その役目を担った牧師・信徒が、祈りかつ献げ、補修工事を幾度か成し遂げてきた。

 時は流れ戦後50年を経た。そうしてこの度の地震にも耐えた。

 長田の在日大韓基督教会の信徒の方が、震災後、中央区へ来て「神戸教会」が倒壊をまぬがれたのを見て、「恵みだ」と言って下さったし、町内の方は、教会が街に建ち残っている姿を見てほんとうによかったと言って下さった。

 会堂は私たちが真剣に礼拝を捧げ、神の言葉を聴き、神を讃美する場である。

 と同時に、この街にあって、人間や社会の営みになくてはならぬ、内面性・精神性・宗教性(福音)を証しする建築物でもある。

 内と外とをつなぐ会堂を改めて自覚し、宣教のわざへと励みたい。